田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。

杉岡氏
昭和32年9月11日福岡県嘉穂郡です。現在は嘉生ですね。

田中
子供の頃に熱中したものとかはありますか?
趣味とかスポーツとかは?

杉岡氏
自分なりに自由な絵を描いたり写実や模写したり好きでした。あとは、プラモデルを作ったりとか、とにかく想像して、何かを描いたり作ることが好きでしたし、それを出品したりして賞をもらったりもしていました。

今でも何かを作ることが好きという事でつながっていますね。
また、中学校の時には水泳、高校では陸上部に所属し、毎日がスポーツ三昧でした。

田中
パティシエを目指したのはいくつの頃ですか?

杉岡氏
そうですね。もともと調理に行こうと思ったのが高校1年の頃です。うちのおじが調理師をやっていましたので、よく料理を作ってくれたんです。
その時は中学校の1年か2年生でした。自分もよく味噌汁や、ハンバーグを作ったりするのが好きだったんです。でも、高校を卒業する頃には忘れて、そのまま滋賀県の科学工場の会社に就職したんです。半年間勤めましたけど、「んっ」と思ったんですね。

自分がしたかったのは別にあるんじゃないかって思ったんです。
思い直して、調理師を目指して横浜に行ったんですが、ホテルでは順番待ちの為にウエイターをしました。
そこで、たまたま食べたお菓子が美味しくて衝撃を受けたんです。
すごく美味しくて、「これだ!と思い」お菓子の道に進もうと決心しました。

田中
修業はどこでされたのですか?また、修業時代のお話をお願いします。

杉岡氏
横浜のホテルを辞めて「十番館」というレストランの洋菓子部門で菓子修業を2年半しました。
その後、福岡の「赤い風船」で2年半、「博多全日空ホテル」で6年と修業を重ねました。トータル11年程修業しましたね。
はじめの修業時代は厳しかったですね。よくこつかれました。
まだまだ封建的な所があったんですね。厳しかったですけど、いろんな事を覚えていくうちに逆に楽しかったです。

「十番館」はレシピがないんですよ。見て覚えるんです。体に叩き込むっていうんですか・・そんな感じです。
たとえば、卵30個割っとけと言われれば30個割りますよね。それを覚えとかなくちゃならないんですよ。
自分でメモを取って自分のポケットにレシピのノートを忍ばせていましたし、このレシピが将来の宝になりました。

今は、レシピは日本全国どこにでもありますけど、自分が作るものが完成していくのが楽しみでもありました。
休みの日には先輩たちと飲みに行ったり、朝まで飲んでそのまま仕事に行ったりとしていました。
若いから出来たんでしょうね。

田中
お店を出そうと決心されたのは、いくつの頃でしょうか?

杉岡氏
27歳、全日空ホテルの4年目の時です。
全日空でも仕事を任されるようになって、イベントの時には私が作ったものを出したりしてくれて、そのうち社内で誕生日ケーキを頼まれると私がアレンジして作ったりして、すごく喜ばれました。それから杉岡君が作ったケーキと指名を頂くまでになったんです。
そんな中で自分に自信がついたのもあったんでしょうね。
結婚して子供が出来たのもありますし、「ここで何かやらないかん」と思い、日に日に自分のお店を出したいと強く思うようになったんです。

田中
お店の場所は何処で始められたんでしょうか?

杉岡氏
元々は、今あるセゾンの前の道路は川だったんです。
久しぶりに帰って来て、この道路を通った事がなかったんで、「あっここに道が出来てる」と、それでずっと模索しながらいい所がないかな〜と。
この辺は、まず車が止めやすい所だと思って自動販売機がたまたまあったので車を止めてみると、そこが貸し店舗だったんです。
それがオープンした旧店舗の小さなお店です。
店舗としては一人でやるから12坪でちょうどいいかなと思いここに決めました。
旧店舗で8年半営業し、それから今の場所に移転しリニューアルしました。

シェフ

田中
リニューアルされた店舗を最初に見た時に変わった建物のデザインだなって思ったんですが、シェフの意見がかなり取り入れられているんでしょうか?

杉岡氏
設計士の方にまず、私はアンティークが好きだと言ったんですね。
アンティークの建物を作ってほしいと言ったんです。
その時、設計士さんから言われたことは「アンティーク」というものはいいもの作ってそれが50年、100年経ち風化して初めてアンティークになるんですよ「いいものを作りましょう」と言われて、
納得しお願いしました。

空間をたくさん作って、最初は無駄かなって思ったんですけど、
今となってはすごく心地よい空間です。

田中
お店の中庭に大きな木がありますけど、この木は最初からあったんですか?

杉岡氏
それがですね。ここに決めたのもこの木があったからなんです。この木を切らずに設計して頂いたんです。

田中

オープンされた当時のお話をお願いします。

杉岡氏
最初の旧店舗のお店ですが、1年間は睡眠時間が2時間でしたので、スポーツ好きで、頑丈な体でも・・きましたね。
半年後にはアルバイトが2名ほど入りましたが、私はほとんど徹夜の連続でした。

そうしたら、翌年の9月にちょうど1週間、夏休みを取ってキャンプに行こうってなったんです。でも朝起きると激しい頭痛がして、キャンプどころじゃなかったんです。
2日目に入院ですよ。「髄膜炎」です。脊髄に風邪の菌が入ってしまい、もう生死をさ迷いました。危篤が3日間続き、薬がなくて、注射も出来なくて、本人の体力しかなくて助かっても植物人間か脳に障害が残るって言われたらしいです。医者が99%駄目でしょうと危篤の時には妻や両親も揃ってたんだそうです。

何とか危篤状態を脱し、お陰様で40日間の入院で無事退院することが出来て本当にありがたかったです。
その辺から自然と「ありがたさ」とか「感謝」とかの言葉が出てきました。
そういった面ではこの21年はいろんな事がありました。

お陰さまで2008年で創業21周年です。「感謝」です。

田中
杉岡シェフがよく「感謝」と言われる訳が分かりました。
それでは菓子職人にとって大切な事とは?

杉岡氏
何でも面倒くさいと思わないことです。
お客様の目線で考える事、お菓子屋はただお菓子を作って売るだけではないです。少しでもお客様の気持ちにお応えする事ですね。

田中
今後パティシエになる方へのアドバイスをお願いします。

杉岡氏
まず、人間の基本である「素直さ」です。
仕事に対する向上心これだけ持てば大丈夫です。

田中
本日はありがとうございました。