田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日とご出身地をお願いします。
また、子供の頃、熱中した事はありますか?

羽田氏
1969年10月5日、出身地は大分県豊後大野市三重町です。
やはり見たとおりの田舎ですので、自然の中で遊びました。

また、この辺は本当に川もキレイで、父が趣味で鰻や鮎を取るのによくついて行ってました。

また、水泳が得意で海に行く事はあまりなかったですが、川やプールによく行っていて、5年生の時に町内の小学校の大会で優勝しました。

中学、高校では音楽に興味を持ち始めて、中学2年生の頃から友人とバンドを組んだりと楽しかったですね。

もともと実家が和菓子屋だった事もあり、小学校2年生の頃から「僕はケーキ屋さんになる」と周りの人に言っていたそうです。
「お菓子屋」ではなく「ケーキ屋」と、和菓子は目の前にたくさんあるわけで、「ケーキを食べたい」という憧れがすごくあったんですね。

田中
羽田シェフで何代目になるんでしょうか?
また、その頃はまったく洋菓子などは作られてなかったんですか?

羽田氏
私で3代目ですね。また、その頃は洋菓子はほとんど作ってなかったですね。
祖父が隣町で「羽田菓子舗」というのを始めて、親父になった時に「羽田製菓」に改名したんです。
そして自分が帰って始める頃は創業が50年を超えていました。地域の方たちは「羽田菓子屋」と言ってましたね。

お店の場所もここでしたし、親父は純粋なお饅頭や、おはぎを作ったりとか、そういう和菓子屋さんでした。
小学校6年生の文集では絵も載っていて「ケーキ屋さんになります」と書いていましたね。

田中
なるほど、小学校の頃からケーキ屋になると、では高校を卒業されてからは?

羽田氏
大阪の辻製菓専門学校に行きました。
高校の頃、親からは好きな道に進みなさいと言われて、大学に進む事も少し考えたんですけど、やっぱり好きな「お菓子の道」に進みました。
もうケーキ屋になるものだと思い込んでいましたから、それ以外の職業は考えた事がなかったんです。

田中
専門学校の卒業後はどちらに。

羽田氏
福岡は北九州の洋菓子店に5年間お世話になりました。その5年の修業後に帰ったので、修業期間は短い方ですね。

田中
修業時代ですが、5年間の修業はどうでしたか?

羽田氏
やっぱり最初は大変な業界に入ってしまったと思いました。
福岡で言えば中洲のような所にお店があり、毎日、朝早くから夜遅くなるのが当たり前で、
最初は体力的にもついていけないわけで、身体が慣れるまで半年はかかりました。慣れてリズムも出来てくると、その頃からやっと面白くなってきました。

田中
仕事を覚える事に関してはどうでしたか?

羽田氏
貪欲な方だったと思います。人より早く覚えたいと思っていたので、先輩とはよく衝突していました。
本当に可愛くない生意気な後輩だったでしょうね。

田中
その洋菓子店には紹介で行かれたんですか?

羽田氏
メーカーさんの紹介だったと思います。
お菓子屋をしていたので、オーブンのメーカーさんが連れて行ってくれて紹介して頂きました。
5年して大分に帰るんですけど、もうその時には「店をするぞ」と思っていました。

今、考えれば冗談みたいな話ですが、どこからそんな自信があったんだろうと、今になって思いますね。
たぶん当時はよく分かっていなかったんでしょうね。
修業時代3年、5年して一通り出来るようになり、おもいっきり井の中の蛙ですが、天狗になっていて「どんなお菓子も作れる」と思っていましたから、また、お店もあるし、資金の面でも考える必要がなかったんですね。

田中
ご実家のお店は和菓子屋ですが、どのようにして洋菓子を販売されたんですか?

羽田氏
僕が帰った頃は完全に和菓子屋でしたし、帰って1年間は改装やお店の事を考えて、
1年後の26歳の時に改装してケーキ作りをはじめました。
最初は1日に10万円売ってみせると言って、親や親戚からも無理だと言われ、田舎だから和菓子をしろとも言われました。
メインが和菓子をしていたので、完全なケーキ屋ではなく「和洋菓子屋」になったわけです。

田中
店舗もリニューアルして始められましたがお客様の反応はどうでした?

羽田氏
7月の真夏にオープンしたんですが、
まず、メインになるお菓子を作ろうと思ってシュークリームを始めました。
皆さん、ここがお菓子屋だというのはご存知なので、オープンのチラシを入れさせて頂き、それなりに売れはしました。
しかし、その後は朝にお菓子を準備したら母にお店を任せて遊びに行ったりとそんな状況でしたね。

田中
そうなんですか、それからはどうだったんですか?

羽田氏
その時はそんなもんでいいんだと思っていたんですね。
実際やり始めていく内に気づきましたが、「俺は何も知らないぞ」と初めて思いました。
他のお菓子屋さんと比べてみて、売れている所は売れている。
こんないい加減な気持ちでは駄目だ、もっと売りたいと思うようになってきたんです。
ですからそれからは本当に頑張りました。「頑張りました」というのは語弊がありますけど、勉強はすごくしました。
変わったきっかけは僕の気持ちだったと思うんです。「ちゃんと仕事をして」、「ちゃんとお菓子を作って」、「ちゃんと売りたい」と、
そう思うようになってから変わったんです。

経験が少ない事を認めることから始めようと思い、まずは知識を得ようといろんな本を読み、いろんなお菓子屋さんを見て歩き、
いろんな方と話をさせて頂き、知らない事を勉強しました。

その時はシュークリームが売り上げの半分以上をしめていて、シューが1日800個くらい売れていたんです。
でも1日にそれ以上作れなくて、その時、いろいろ助言を頂いたのが、大分の「パニエ」の市原シェフと福岡の「ジャン・ドゥ」の陶山シェフ
なんです。
シューの配合、やり方をいろいろ教えて頂いて、それからシューが1日1,000個を超え、
生菓子や焼き菓子も増やして売り上げも伸びてきました。

戦略的に何かをした、というのはあまりないんですね。
やっぱり自分の気持ちが前向きに変わったのが一番でした。
それから売り上げも上がっていって、スタッフも雇えるようになりました。

田中
それではシュークリームがお店の看板商品ですね。

羽田氏
お店の商品の中では、シュークリームがお客様を呼んでくれたと思います。
その頃は補助してくれる方はいたんですけど、製造はほぼ一人でやっていました。
そしてその頃にスタッフも揃ってきて、売り上げもポンと上がった事はなくて徐々に徐々に上がってきて、10数年かけて伸びてきたんです。
だからお店としてもしっかり対応できたと思います。

このお店を建てるのも夢だったので、その頃はまだ親父が社長だったのもありますが、お店を借りてやっているという意識がありました。
完全な自分の店を建てたいと思って・・現在の店を建てるまでは本当に必死でした。

田中
それで、総リニューアルされたのが何年ですか?また、いかがでしたか?

羽田氏
2003年の10月ですね。
その時に「お前に任せる」と親父に経営も譲ってもらいました。
その頃から売り上げが数%くらい上がっているんですが、数%上げるのがこんなにキツイとは思いませんでした。
その頃のスタッフとほぼ変わらないし、設備は良くなって作業スペースも広くなってやりやすいはずなのに、違うんですよね。
その数パーセントが本当にキツかったです。

総リニューアルした初年度は大変で、全部後手後手に回っていて、
いつの間にか1年経ったという感じでした。

その後は設備や環境にも慣れ、今では、効率的に仕事が出来る体制も整っていますし、スタッフも頑張ってくれています。
お店も地域の皆様にも支えられてここまで来ましたし感謝の気持ちでいっぱいです。
今でも、和菓子は出来る範囲でやっています。

田中
お店の名前を「お菓子のHADA」にしたのは?

羽田氏
自分としてはオシャレな横文字の店名と思っていたんですけど、みなさん「羽田菓子屋」と言っているし、
「羽田」という名前は残した方がいいんじゃないかと考えました。
もちろん屋号は大切だと思いますので、地域のお菓子屋を目指してやるんだったら「羽田」を残そうという事で「お菓子のHADA」にし、
唯一「羽田」を英文字の「HADA」にしました。

田中
菓子職人にとって大切な事は。

羽田氏
まずパティシエである前に、立派な一人前の社会人である事だと思います。
その上でお客様やオーナーや先輩の助言や指導を、受け入れられるような素直な気持ちを持つ事、それがないと成長も無駄に遅くなってし
まうと思います。

確かに厳しい事、納得できない事もたくさん言われますが、ケーキ職人を極めたいという探究心や上を目指す気持ちを持つ以上、
そういった事も素直に受け止めていこうと思っています。

田中
これから菓子職人になろうとしている人にアドバイスを。

羽田氏
「これしかない!」と思って頑張り抜くことですね。
労働条件、給与条件等、どのお店でも大差はありませんので、本当に自分の好きなお菓子を作っているお店を自分の舌で選んで、
しっかりパティシエを目指して頂きたいと思います。

田中
本日はありがとうございました。