中学、高校では音楽に興味を持ち始めて、中学2年生の頃から友人とバンドを組んだりと楽しかったですね。
もともと実家が和菓子屋だった事もあり、小学校2年生の頃から「僕はケーキ屋さんになる」と周りの人に言っていたそうです。
「お菓子屋」ではなく「ケーキ屋」と、和菓子は目の前にたくさんあるわけで、「ケーキを食べたい」という憧れがすごくあったんですね。
田中
羽田シェフで何代目になるんでしょうか?
また、その頃はまったく洋菓子などは作られてなかったんですか?
羽田氏
私で3代目ですね。また、その頃は洋菓子はほとんど作ってなかったですね。
祖父が隣町で「羽田菓子舗」というのを始めて、親父になった時に「羽田製菓」に改名したんです。
そして自分が帰って始める頃は創業が50年を超えていました。地域の方たちは「羽田菓子屋」と言ってましたね。
お店の場所もここでしたし、親父は純粋なお饅頭や、おはぎを作ったりとか、そういう和菓子屋さんでした。
小学校6年生の文集では絵も載っていて「ケーキ屋さんになります」と書いていましたね。
田中
なるほど、小学校の頃からケーキ屋になると、では高校を卒業されてからは?
羽田氏
大阪の辻製菓専門学校に行きました。
高校の頃、親からは好きな道に進みなさいと言われて、大学に進む事も少し考えたんですけど、やっぱり好きな「お菓子の道」に進みました。
もうケーキ屋になるものだと思い込んでいましたから、それ以外の職業は考えた事がなかったんです。
田中
専門学校の卒業後はどちらに。
羽田氏
福岡は北九州の洋菓子店に5年間お世話になりました。その5年の修業後に帰ったので、修業期間は短い方ですね。
田中
修業時代ですが、5年間の修業はどうでしたか?
羽田氏
やっぱり最初は大変な業界に入ってしまったと思いました。
福岡で言えば中洲のような所にお店があり、毎日、朝早くから夜遅くなるのが当たり前で、
最初は体力的にもついていけないわけで、身体が慣れるまで半年はかかりました。慣れてリズムも出来てくると、その頃からやっと面白くなってきました。
田中
仕事を覚える事に関してはどうでしたか?
羽田氏
貪欲な方だったと思います。人より早く覚えたいと思っていたので、先輩とはよく衝突していました。
本当に可愛くない生意気な後輩だったでしょうね。
田中
その洋菓子店には紹介で行かれたんですか?
羽田氏
メーカーさんの紹介だったと思います。
お菓子屋をしていたので、オーブンのメーカーさんが連れて行ってくれて紹介して頂きました。
5年して大分に帰るんですけど、もうその時には「店をするぞ」と思っていました。
今、考えれば冗談みたいな話ですが、どこからそんな自信があったんだろうと、今になって思いますね。
たぶん当時はよく分かっていなかったんでしょうね。
修業時代3年、5年して一通り出来るようになり、おもいっきり井の中の蛙ですが、天狗になっていて「どんなお菓子も作れる」と思っていましたから、また、お店もあるし、資金の面でも考える必要がなかったんですね。 |