思います。休みの日には駅の清掃活動などしましたね。
中学ではバレーボール部に所属し、レギュラーになって、土日の練習がボーイスカウトの活動と重なったものですから、
バレーボールに集中する為に、中学2年生の時にボーイスカウトは辞めました。それからはスポーツの毎日でした。
田中
お菓子の事を意識し始めたのはいつ頃ですか?
西村氏
そうですね。
一番影響を受けたのは、父ですね。
父がパンとケーキのお店をしていたものですから、子供の時から見て育って、私の誕生日ケーキとかに、オリジナルのケーキを作って
くれたんですよ。2代目、3代目の方は小さい時から見て育っているんで、この道に進む人が多いと思いますね。
田中
それでは、高校を卒業されてすぐ修業に行かれたんですか?
西村氏
そうです。
最初は久留米の「ブラッツェル」に父の紹介で行かせて頂いて、2年間くらいお世話になりました。
何も分からないところから入りましたので、いろんな面で勉強になりました。
田中
その後はどちらに行かれたんですか?
西村氏
その後、知り合いの方から東京の洋菓子屋さんが募集しているから行かないかという誘いを受けましたので、
そのままスポーツバックひとつ持って東京の「イル・プルー・シュル・ラ・セーヌ」で1年間お世話になり、
そこにいらっしゃった、スーシェフが岡山に「スーリィ・ラ・セーヌ」というお店を出すことになり、立ち上げから携わり4年間修業を積みました。
田中
今まで、トータルして7年間くらい修業を積まれる訳ですが、その後は?
西村氏
それから、北九州に帰って実家を手伝うわけですが、その時にはすごく腕に自信はあったんです。
でも、父が作ったケーキは売れるんですけど、正直、私が作ったケーキは地元のお客様にはあまり受け入れてもらえませんでした。
技術的にはひと通り作れるんですけど、自分を見つめなおす為と、技術向上のためにフランスはパリのジャン・ミエ氏のお店で勉強させて頂きました。
田中
フランスから帰られて、実家のお店に入られるわけですか?
西村氏
父が「お前が店を出すなら今の店を閉めてお前に任せる」と言ってもらったんで、オープンする時には洋菓子専門店として、
私がお店を出す事になりました。
まず、父がやっていたお店には駐車場がなかったものですから、駐車場がある物件を探したんです。
前のお店からは約15分くらいの場所で現在のお店でオープンする事ができました。
とにかく、イル・プルー・シュル・ラ・セーヌ当時、ケーキやお菓子はすごい温度管理だったり、
ケーキを作るにしても、カルチャショックを受けるような作り方だったんです。
そんな事で、「イル・プルー・シュル・ラ・セーヌ」や「スーリィ・ラ・セーヌ」での勉強が私のお菓子作りの基礎になりました。 |