田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃はどんな事に熱中していましたか?

川添氏
昭和38年12月6日生まれ、出身は宮崎です。
小学校の頃は地区のソフトボールクラブに入って、
そこで4番バッターでピッチャーもやっていました。

元々は中学に入って野球部に入ったんですが、その年の陸上の大会にメンバーが足りなくて、陸上部から「大会に出てくれ」と頼まれて、100mと200mの競技に出た時に、どちらも大会新記録で優勝したんです。

それで野球部から陸上部に入る事になって、その後に全国から
選抜されるジュニアオリンピックにも出場しました。
高校でも陸上をして記録が100m10秒8ですが、今の高校生なら10秒4ぐらい出すでしょうね。

田中
川添シェフのご実家は和菓子屋ですよね。
将来の事なんですが、高校の頃はご両親の和菓子屋さんを継ぐ事を考えてたんでしょうか?

川添氏
高校の頃はあまり両親の家業を継ぐという思いはなかったんです。
両親の苦労というか、お菓子屋さんはどうしても徹夜作業で朝早くから仕事していますし、両親だけでやっていて大変な姿を見ていたから、
あまり興味を持てませんでした。
ただ、高校を卒業する頃になって、就職・進学と選びますが、私の陸上の記録じゃ大学には行けそうにもなかったので、
働く道を選択しました。

田中
それでは、お菓子の専門学校へ行かれたんですか?

川添氏
はい、東京の日本菓子専門学校で2年間勉強して、1年間は和菓子と洋菓子の基礎、2年目に選択で和菓子か洋菓子かを選ぶんですが、
私は洋菓子を選びました。
卒業後は東京の風月堂で7年間修業しました。

田中
修業時代のお話なんですが、どうでしたか東京での7年間は?

川添氏
最初、これを仕事にしていく!と思えるまでには1年〜2年程かかりました。
ただ私が入った時にスタッフが5人いたんですが、私が入った時に3人辞めたんです。
私は専門学校に行ってますけど、学校は「技術」というより「知識」なんです。実習で作ったりはしますけど、頭で覚える事のほうが多くて、
それは経験には入らないんですよ。
頭で覚えるだけだから現場に入った時には何も出来ないんです。

私は運が良いのか悪いのかいきなり3人も辞めて、チーフとしては一刻でも早く仕事を覚えてくれと、普通5年くらいで覚える事を2・3年くらいで教えて頂いて本当にありがたかったです。
何年かしてから休みを利用して他の洋菓子屋さんを回れるようになしましたけど、最初のうちは休みの日はただ寝ているだけでした。
そうする内に人も入ってきて、今度は教える立場になるわけですね。

田中
7年間の修業後に帰ってお店を開きたいという想いはあったんでしょうか?

川添氏
修業時代に親父が体を悪くして入院したんです。そんな事もあり宮崎に帰ろうと思ったんです。

もともと両親は和菓子屋でしたが、私は洋菓子がやりたいわけです。
それで全国で売れているお菓子屋さんを見て、そのオーナーさんのお話を聞いたり、店員さんの接客を見たり、
将来自分がお菓子屋を開業する時に活かせるように、半年の間に全国のお菓子屋さんを見て回りながら帰りました。

田中
それで、宮崎に帰って来られて、始められるわけですね。

川添氏
そうです。28歳の時です。
最初は実家の和菓子ケースの半分に洋菓子を入れて販売するという形です。
そこで、3年くらいやりました。

田中
和菓子の創業なんですが、「お菓子のひろや」としては何年になるんですか?
また、帰ってこられて、ショーケースの中に洋菓子を入れた時のお客様の反応はいかがでした?

川添氏
私が生まれた次の年ですから、昭和39年が創業です。
帰ってきた当初はあまり売れなかったです。
1年間くらいは商品を捨てるというか、味を見てもらうために「差し上げる」無料で味見をして頂く。

その当時、一番印象にあるのは、バレンタインの時の「トリュフチョコレート」が1個130円くらいで、綺麗な陶器の器に山積みして、
お客様に味見して頂いて、するとお客様がその器ごと130円だと思われて「1個130円なんですよ」と言ったら「えーっ!?」て驚かれて、
最初の年のバレンタインはまったく売れませんでした。

やっぱり「和菓子屋の洋菓子」じゃダメだと思いました。
お客様としては、和菓子屋に来てケーキも置いてあったという感覚でしょうね。
ですから、その頃には建物から「ケーキ屋さん」という形にしたいという想いはありました。

田中
和菓子屋さんという感じの建物だったんですか。

川添氏
私が帰って来て3年後に、洋菓子店の「ひろや」として平成11年に改装したんですが、
和菓子屋の頃は道路の前いっぱいまで店舗があって、ここを改装する時にあえて引っ込めて前を駐車場スペースにしたんです。
新しくオープンして、駐車スペースを作った分、お客様も寄りやすいようで、入ってこられた時に「前はここ何のお店でしたかね?」
って聞かれるんですよ。
あれだけ前面にあったのに「和菓子屋があった」というイメージがないんですよね。

田中
それでリニューアルされてからはどうでしたか?何かメインの商品はありました?

川添氏
最初は、とにかくお客様に来て頂く事で、ある程度お安くして提供していました。
私が帰って来てからすぐに「チータル」を出しましたが、今のパッケージになったのは3年くらい前と思います。
和菓子屋さんはどうしても「箱物」で売るような形態が多いんです。カステラにしても饅頭にしても、洋菓子にしてもまずはそうやって
ギフト商品として「箱物」で売れるような商品を作りたかったので「チータル」を出しました。

田中
「チータル」ですが、最初お客様の反応はどうでした?

川添氏
やはり最初は宣伝はしていましたが売れなかったんです。
それが知らないうちにお客様の口コミで広がって、当時、まだシーガイアがあったんですね。
フェニックスのオーシャンドームですが、そこの従業員の方が「チータル」を買って「美味しい」って話が広まって、
自分もそこまで信じてなかったんですがそれから、徐々にうちに来られるお客様が「チータル」を求めるお客様が多くなって来て、
最初は「チーズタルト」で売っていたんです。

それをもっとうちの商品としてオリジナル感を出すために、もっと呼びやすい商品名をつけようと、
「チーズタルト」を縮めて「チータル」にしたんです。

そして名前が決まってシールを作って、最初は無地の袋に商品名のシールを貼っただけだったんですが、お客様の口コミで「美味しい」と
言って頂いて、あと「是非東京に持って行きたいんだけど、ちょっとこのパッケージじゃ様にならないのよね」という声で、結果的に今のパッケージになったわけです。

普通だったらパッケージは1種類なんですが、そこをあえて5種類のイラストの顔のパッケージにしました。
それから本当に良くお買い求め頂けるようになりました。

田中
菓子職人にとって大切な事とは。

川添氏
私は若手を育てる立場なので、菓子職人になるのに大切な事は、
一番は「素直さ」二番目は「辛抱強さ」この二つですね。
前提は「好きである事」なんですよ。
お菓子が好きで、この二つがあれば後は技術はついて来ます。
簡単に辞めてしまう子もいます。「やっぱり好きじゃないのかな」と、好きだったら
「しがみついてでもやりたい」と思いますね。

田中

これから菓子職人になりたいと思っている人にアドバイスを。
例えばどういう動機で入ってこられるんですか?


川添氏

それは、家や趣味で作ったお菓子が家族や友達に喜ばれたとか、作りたいという動機ですね。
生涯、自分がこういうお店を持ちたいから、という動機の子はまずいないですね。

やりたいと思ってないのか、出来ないと最初から思っているのか、作れる事だけで満足してしまうのか、
だからこれからのパティシエに望む事は絶対に「夢を持つ事」。
それは独立するのが全て正しいとは思いませんし、個人、個人でいろんな夢があるとは思います。

田中
本日はありがとうございました。