ジェットスキーは23歳くらいから、単車は小学校の頃からです。
暴走族じゃないですよ。
田中
それでは高校卒業されてからは?
廣瀬氏
東京の専門学校に行いきました。
3年くらい修業というか勤めて、実家が和菓子屋なんですが、親父がその頃、倒れまして、それで佐賀に戻ってくる事になったんです。
和菓子屋をしながら洋菓子を勉強して、そしてお店を出す前に研修とか、ヨーロッパには20歳の時に3ヶ月くらい、いろいろ見て回りました。
それでお店を出す前に、知り合いのケーキ屋さんに研修など行かさせて頂きまして、31歳の時にお店をオープンして現在に至るです。
田中
最初にお菓子の専門学校を卒業されて、就職されたのは東京ですか?
廣瀬氏
実家は佐賀で和菓子屋をしていましたので、それから実家に帰って、そこで和菓子と洋菓子をやり始めました。
でも和菓子がだいたい専門ですから、今でも和菓子の部分を洋菓子に取り入れたりします。
僕はもう、専門学校の時の先生が「どっちやりたい?」と聞かれた時に「やっぱり洋菓子です」と答えて、その先生が当時、
和菓子で結構有名な方だったらしくて、「和菓子をやった方がいいよ」と言われてその時、素直に受け入れたんです。
当初は和菓子の方に進んだんですけど、結局、洋菓子の方に変更しました。
それで、そこを卒業して東京の菓子屋に行って、3年くらい勤めさせて頂きました。
田中
その後、お店を出すまで、どちらで修業されました?
廣瀬氏
あとは、もう家に帰って来て、知り合いや先輩の所で研修程度です。3週間とか1ヶ月とか。
田中
お店オープンされたのはいつですか?
廣瀬氏
資金がなかったので1年半くらいの間に高額取れる業種の方に行って、それでもあまりお金なかったですけど「やっちゃおう」みたいな感じで
お店を出しました。
田中
この場所に決められたのは、やはりいろいろ探されましたか?
廣瀬氏
いろいろ探しましたね。
当時はここの周りが全部、田んぼだったんです。何もなかったですね。
社会保険所がポツンとあって、このマンションを建てる基礎もやっていませんでした。
それで実測と言うか計測しますよね。
その時に何か「ここ良いなぁ〜」みたいに何か感じて、初めここは、先に借りられていたんですがキャンセルが出て借りられるようになって、
それでここでお店をやる事になりました。
今は周りにこんなにたくさん出来てますけど、 当時はお店といったらこのマンションの一階のコンビにとかがあったくらいですね。
店舗という店舗は一切なかったんです。
田中
お店の名前の「くらら」ですけど、あの「ハイジ」のクララですよね?
廣瀬氏
あのー、はじめは、横文字で「パティスリー○○」とかつけたかったですけど、型にはまっても元々「知名度」がないので、出来るだけ覚えてもらいたいという想いもありましたし、それで「クララ」と言う、お嬢様が足が不自由だけど最後は立てるようになって笑顔が出てきて、自分もそうなりたいと、自分にも「ハンディ」があったので最後は笑って歩けるようになりたいなという想いと、先程の覚えてもらいたいというので、
カッコつけづにこの名前にしました。
よく「お前の顔には似合わない」とか言われますけど、よしじゃあ「くらら」で行こうと決めて、だから、そんなに深い意味はないです。
ただ「前を向いて上を向いて」歩きたいという事です。 |