田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃はどんな事に熱中していましたか?

片岡氏
1966年、昭和41年1月29日、出身は熊本県水俣市です。
小学校、中学校の頃はクラブで毎日が野球の日々でした。
高校の頃はハンドボール部に入っていました。
小学校の頃はよくプラモデルなどよく作っていましたね。

田中
お菓子の世界に入ろうと思ったきっかけは?

片岡氏
きっかけは、もともと親がお菓子屋でケーキも少しやっている和菓子屋さんでした。
水俣でやっていて今はもう引退しているんですけど、小さい頃からそういうのを見ていて、やりたいとは思ってはいなかったんですが
継ぐのが当たり前なのかなとは思っていました。
親は逆に継がなくて良いと言っていました。それで高校を卒業してからは、東京のケーキ屋さんに親父の知り合いの関係で行きました。
まぁ早く親から離れて暮らしたかったのと東京にもすごく憧れていて、世田谷の三軒茶屋にある「アーモンド洋菓子店」で
3年間お世話になりました。
4畳半1間のアパートを借りてもらっていて、銭湯がよかったですね。

田中
それで3年間お世話になって、その後は?

片岡氏
池袋の東武デパートの中に「シェ・マツオ」というデザート喫茶のようなお店に入ったんです。そこに1年半お世話になりました。
渋谷の方に本店があるんですが、それが初めてデパートに喫茶を出すという事で人を探していて、
そこが当時、一番の高級フランス菓子というケーキ屋でしたね。
最初は本当に楽しかったです。今までにないような綺麗なお菓子作りというのがすごく楽しくて、当時は味よりも見た目重視のお菓子でした。
それに、アシェットデセールの面でも勉強になりました。注文が入ってから作るという作業です。
そうですね。4、5人ぐらいでやっていました。

そこで1年半お世話になって、その当時、代々木に新しく洋菓子屋が出来たんですけど、「美味しいよ」と聞いてそこに食べに行った時に
ショックを受けたんです。
もう本当に美味しくて、自分がこの4年間何をしていたのかと、ガーンと頭を殴りつけられたような感激、感動もしましたし、
そしてもうそこに入りたくてしかたがなかったんですけれど、そこは空きがなくて、たまたまシェ・マツオのチーフのお友達で、
今、別の店でチーフをやられていて、そこが人を探しているというお話をもらって、そこに入ったんです。
それが銀座の「砂糖人形」というお店でした。

田中
そこに紹介で入られたわけですか。

片岡氏
そうです。
そこでお菓子作りに対する考え方というのを、すごく今までにないぐらい考えさせられた部分がありました。
メレンゲひとつにしても、ただ立てるのではなく、こういった時にはこういったメレンゲを立てるとか、そう言った事を、
今の自分の原点にある部分というのは、ここで学んだものが一番大きいのかなと思いますね。「砂糖人形」には約2年ほど居ました。

で、もともとフランスというのは、やっぱり日本でやるわけだからフランスで働くまではないと、自分にはまだ行けないだろう。
でもそれでも旅行では1回は行きたいと思って、「砂糖人形」をあがった後に2週間から3週間くらいパリに個人旅行に行ってきました。
その時にフランスで働いていた日本人の方に話を聞く機会がありまして、それで自分も1度は行ってみたいと思うようになったんです。
食べてみて、それで本当にケーキ屋さんばっかりで、たぶんパリのケーキ屋さんだけで30件は食べてまわりました。

田中
本格的なお菓子をフランスで勉強してみたいと思ったんですね。

片岡氏
んー、フランスってまだ雲の上みたいな存在ですから、ただその時に初めて「あぁ、働いてみたいな」という気持ちは生まれました。
それでも、その後は、三鷹市のお菓子屋さんでまた1年間お世話になって、その時にちょうど自分の従兄弟が、菓子職人の世界に居て、
彼は昔から「フランス行きたいフランス行きたい」と話をしていて、そうしたらたまたま「レストラン・トロワグロ」と言う所から
今日本人のパティシエを探しているから行かないか、という話が従兄弟に来たんです。
で従兄弟が行くって決まった時に従兄弟が「1年契約だから、お前いくかい?」と自分に聞いてきたので、「じゃあ!」と、
「お前が行くなら俺も行く」って感じで。

田中
一緒にフランスに行かれたんですか?

片岡氏
いや、一緒ではなくて1年後ですね、従兄弟が1年間トロワグロでやって次の代わりで自分が行くって話しが決まっていました。
それで1992年の3月にフランスに行ったんです。
だから修業としては、アーモンド洋菓子店で3年、シェマツオに1年半、砂糖人形に1年半、三鷹市のふらんすやというお菓子屋さんが1年、
その後、鹿児島の一公さんで半年間、フランス行きが決まっていたので半年間のみとなりました。

田中
フランス時代はどうでした?

片岡氏
いやぁもう、最初は大変です。言葉がまったくわからないですし、ロアンヌってリヨンの郊外になるんですけれど、
田舎の「三ツ星レストラン」なんです。
行くまで知らなかったんですけど、世界的にめちゃくちゃ有名なレストランで、毎週のように芸能界関係やすごい田舎なのに
日本人もよく来店し食事に来ていた所でしたね。

最初はデザート担当で一番最初はプチフール、日本人が担当するのはプチフールばっかりでレストランだと食事の後にお茶請けとして出すものですが、それを担当していて、たまたま半年後にもう1人日本人のパティシエが入る、となった時にディナーのデザート部門の担当をさせて頂く事になったんです。日本人として部署をまかせられると言うのは珍しかったみたいです。

田中
そうすると日本と違うというか、感覚の勉強ですか。

片岡氏
そうですね。
ただ、最初はお菓子屋さんじゃなく完全なレストランなので全てが新鮮でもありましたし、何て言えばいいのかな、
もう日本では何でも出来るという感じで、ある程度まかせられてシェフとしてやっていけるという状況の中で、そういう時にフランスに行くと、
また1からという状態で始められるんです。

だから、まっさらな気持ちから始められたのが新鮮だったし楽しかったです。
フランス語の学校とか全然行った事がなかったので、とにかく数字だけ覚えて行こうと、何しろ最初は言葉の問題で生のフランス語ってのも聞いたことなかったし、だからフランスに行っても、まったく分からず、片言の英語で教わったり、でも3ヶ月くらいすると相手の言っている事がなんとなく分かるようになってきて、こっちもしゃべりたいから休みの日もいろいろ、例えば日本語で書いた日記を文章もわからずフランス語に変えて、それを職場の仲間に言って通じた時の嬉しさといったらなかったです。もう感動でした。

で「パリ」というのに憧れがあって、ケーキ屋さんで働きたいとの想いもすごく強く、でも給料が出る所じゃないと生活が出来なかったので
給料が出る所で探した洋菓子屋さんの中で「ジェーラールミュロ」が一番有名だったんですが、何回も当たったけれども4回くらいは
「今は人がいっぱい」と断られて、次に行った時に「人が空いたからいいよ、明日から」と言う事でジェーラールミュロに入り、1年半くらい居ました。
当時パリの個人店として一番人気があった所でしたね。

ただ、日本人が多く居て、一番多い時は7人はいたかな。お店のパティシエだけでも30人近くいましたから。
自分が入った時でも日本人が3人でした。
ただ、ジェーラールミュロのパトロンが「日本人はすごく勉強して仕事をしてくれる」という考えがあるようで、
それで雇ってくれていたというのがあるんですよ。

田中
結局フランスには何年間居たんですか?

片岡氏
トータルで3年半くらいです。
ちょうど日本に帰る頃、フランスに居る時に東京の方で「新しい店が出来るから手伝ってくれ」という話が来たんです。
それがトロワグロ時代の日本人料理人の大先輩で、オープンカフェのレストラン長として入っていて、
どうしてもパティシエの部門が弱いから手伝ってくれと頼まれて。
ただ日本に帰ったら自分の店をやるんだという気持ちが強かったので、断っていたんですが、それでも3ヶ月手伝いでいいからと言われて、
3ヶ月東京で手伝って、それでまたフランスに帰ったんです。
突然帰って来てくれと言われたので、荷物も全部フランスに置いて、飛行機代から全部その会社持ちでやってくれて。
でフランスに帰って来て貧乏旅行ですが、ちょっと旅をしました。

田中
それは幾つぐらいの時ですか。
フランスに帰られてまた働こうとは思われなかったんですか?

片岡氏
29歳ですね。いや〜、悩んだんです。
悩んだんですけど、もういいかなという思いがあって、なにしろ「自分で店をやりたい」との気持ちがすごく強くなっていて、
それで最終的にフランスにいたのは3年半くらいになり、1995年の9月に熊本の水俣に帰って来ました。
それからはお店の準備ですね。
自分で全部やらせてもらって、まだ父も店をやっていたんですが早く引退したかったみたいで、話し合って結局、
親の店を新しく自分の洋菓子店として出す事になりました。
そして1996年の7月4日に水俣で「プチ・シュン」をオープンしました。

田中
最初は何人から始められてのですか?

片岡氏
最初は自分一人で、やっぱりオープン当初は眠れない時期が続いて、1ヵ月後には製造を1人入れて、
販売は母親とアルバイト、2年目から姉が熊本から水俣に帰ってきて販売をやってくれました。
水俣で9年間営業をしました。

田中
熊本市内に移られたのが何年ですか?
また、この場所にお店を出そうと思われた理由は?

片岡氏
2005年の5月13日に移店オープン致しました。
そうですね。何で水俣からこっちに移店したのかと良く聞かれるんですが、いろんな要素が入っているんですよね。
実際「跡継ぎ」というものに関して、自分がとても違和感を感じていたんです。
自分は実家の店を継いだのですぐに店を出せましたが、ちょうど同時期にフランスに行った知り合いが、5年、6年経っていくうちに東京でみんな有名になっていく。そうじゃなくても、みんな自分の力で店を出し始める。そういうのを見て、実家とは言え好きなようにやらせてもらっていたけれど、「跡継ぎ」に違和感を感じたのがひとつ。

それと土地柄、先々を考えた時にどうなのか、どんどん毎年数パーセント人口が減ってきていて、最初は「のんびりゆっくり」やれば、
という気持ちがあったけれど、同期を見て「やっぱり俺も、もっと頑張らないと」「もっと自分を試してみたい」という気持ちが出てきたのもひとつ。
あとは従業員の問題です。
自分は人を育てたいとずっと思っていて、でも田舎にはなかなか就職に来てくれない。
そういうことで人を使う所で限界がある。本当にお菓子作りがしたい人間が来るかと言ったら疑問符なんです。
それで、もう少し大きい町でやりたいと思って、知っている町と現実的な内容からしても熊本市内しかなかったので、
そんないろいろな要素があり移店しました。

田中
この場所に決まったのは?
また、移店された当初はどうでした?

片岡氏
移店を決めてから1年ほど探していましたけど、広さ・家賃を考えるとなかなか良い物件がない中、たまたまここがそれに近い状態の物件で駐車場も5台取れている。
そしてこの場所を調べたら未だに人口が増えていて、マンションもどんどん建っているという地域だったので、ここならと思って決めました。

まぁ熊本市内でもケーキ屋が一番多い激戦区ではあるんですけど。
旧店舗のスタッフを全員連れて来たんですが、お店は一からでした。
慣れたスタッフもいましたし、地元の情報番組など色んな局が1年で7回ほど紹介して頂いた事もあり、それでお客様も来てくれました。


マカロンの特集番組なども組んでくれて、それでマカロンと言えばプチ・シュンというのが根付いた部分があります。

田中
菓子職人にとって大切な事とは。

片岡氏
菓子職人だからと言う事ではないですが、まともな社会人であれば常識を知っていてほしい。
菓子職人としてはまずはお菓子が好きな事。
自分が好きじゃないと、美味しいものは作れないと思うんですよ。「作るのが好きです」じゃなくて、まずは自分で食べたいと思わない事には、何が美味しいのか分からないと思います。

すぐに答えが出る仕事でもないので、コツコツやれる事、細かで地味な作業、毎日、同じ事の繰り返しですから。何に対しても興味を持てる事、そして常にプラス思考、嫌と思い始めたら何もかもが良くは見えなくなるんです。
逆に嫌だなと思っても良い所を見つけたら楽しくなってくる。
そうしたらある程度の事は耐えられると思うんです。だからこそプラス思考が大切です。

田中
これから菓子職人になろうとしている人にアドバイスを。

片岡氏
いろんなお菓子を食べなさい、僕はもうこれだけです!
いろんなケーキ屋さんのいろんなケーキを、1件のケーキ屋さんでも2、3個だけじゃなく、20〜30食べて判断する。
いろんなタイプのお菓子屋さんがありますから、そうしていく事で自分がどんなお菓子屋さんになりたいのかも見えてくると思います。
だから自分はとりあえず食べなさいと言っています。

田中
本日はありがとうございました。