先生からバレー部に入らんかと言われ、入部して中学、高校とず〜とバレーをやっていました。
ここは漁師の街でしたので子供の頃は、海ばかり行っていました。
特に夏には毎日よく海に潜ったり、釣りをしたりと毎日遅くまで遊んでいました。だから、いつも夏の間は真っ黒でしたね。
田中
パティシエを目指したきっかけは?
河原氏
体育の教師を目指しましたが、体育大学を諦め、第二の目標である調理師になるためにコックを目指し、
大阪の日本調理士学校に入学しました。
学校では和食、中華、洋食全部習いました。どれも作るのが楽しくて、将来の夢を描くようになったのを憶えています。
でもその中で、いちばん面白かったのがお菓子だったんです。
お菓子って本当に奥が深いです。それが、きっかけで、この道を進みたいと思いました。
田中
修業はどこでされたんですか?
河原氏
卒業して福岡の「赤い風船」に入りました。その後、「博多全日空ホテル」に入り、神奈川のドイツ菓子の名店の「バッハマン」。
東京銀座の「東武ホテル」それで、福岡に帰ってきて「ホテル日航福岡」、最後に飯塚市にある杉岡オーナーの「セゾン」です。
トータルしたら12年間修業しました。
いろんなところで修業させていただき、大変勉強になりました。
将来自分のお店や自分なりのお菓子の思いを描いたりと、ワクワクしながら過ごした修業時代でした。
田中
将来の自分を思い描くって目標にもなりますね。それでは、修業時代はどうでした?
河原氏
そうですね。
神奈川のドイツ菓子の名店の「バッハマン」は厳しかったですね。「バッハマン」のほとんどの人がお菓子屋の息子が多かったんです。
いろんな事を覚えるのが大変だったですが、私自身、どん欲にいろんな事を覚えたい一心ですから、自分が納得するまで聞いたり、
自分自身で勉強したりと少しずつですが職人としての技や自覚が備わってきたと思います。
でも、修業時代は楽しいことも多かったですね。
仕事時間も長かったですけど、いちばんの勉強になりましたから、個人店だったから身近でいろんな事を学びました。
それで、また違った意味でホテルの修業は楽しかったですね。
ホテルはいろんなセクションがありいろんな人との交流がありますから、幅があるっていうか、個人店とは違った意味でトータル的に勉強になりました。
休みの日はリフレッシュの意味で映画ばかり行っていました。映画が好きなんですよ。特に洋画が大好きですね。
田中
お店を出そうと決心したのはいつごろでしょうか?
河原氏
ホテル日航福岡の時ですね。
その時にですね、ホテルも長かったんですけどホテルのシェフにならんかと言われましてね。
でも、ホテルのシェフになってもトップじゃないんですよ。
気持ちとしては自分のお店を持ちたいと思っていましたから、その時に決意しました。
そこでホテルでの経験が長かったのでもう一度、個人店に行こうということで、福岡県飯塚市の「セゾン」にお世話になりました。
私の先輩でもあるし、赤い風船や全日空ホテルでも一緒でしたので、お店を出す心の準備は出来てはいましたが、お店のノウハウをもう一度習いたいと思いセゾンさんにお願いしました。 |