田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日とご出身地をお願いします。
また、子供の頃に熱中した事はありますか?

安藤氏
昭和40年4月4日生まれ、出身は北九州です。

子供の頃はやっぱりプラモデル作りと、あとは機械いじりが
大好きで、レコーダーとか機械類を分解してまた組み立てて、それが楽しみでした。
スポーツは中学校から高校までテニス部でした。

田中
パティシエを志したきっかけは?


安藤氏
祖父が国東半島で和菓子屋をしていて、2代目になり親父が北九州でケーキ屋をしていたんです。
その影響が強いですね。

田中
では三代目ですね。

安藤氏
ええ、「遊びに行くときはバタークリーム作ってから遊びに行け」とか言われて当時はイヤイヤ手伝いをしていました。
小学校の頃は、後を継ぐと言うと周りが喜んだりしていたのでいつも言っていたんですけど、ケーキ屋で両親共に忙しく、クリスマスパーティーとかもなかったですし、そういうのが嫌で中学生になる頃は、自営業は嫌だ絶対サラリーマンになるって思っていました。

田中
それがどうして菓子職人になろうと思ったんですか?

安藤氏
中学2年生の頃の話なんですが、
親父がしていたお店の周りに居酒屋さんがたくさんあって、夜の11時まで開けていたので酔った方もよく来ていたんです。

ある日いつものように酔った方が来て親父が接客していたら、もう色々悪口や悪態を言うんですけど、それでも親父はニコニコしながら接客していて、それを見て「何で怒らんとー!」って言ったら、「色々言っても最後には家族の為にお土産でケーキを買って頂くだろう?だからね、最後まで笑顔で接客しないと」と言われて。
「そうか、菓子屋はそういう事で人を幸せに出来るんだ」とその時気付きました。
それからお菓子屋の道に進もうと思いました。

まぁ思いながらも‥‥なかなか手伝いはしなかったですけど(笑)。
だけど菓子屋の子供なので、友達に「何か作れるんだろう」とかは言われたりして、友達の家でクッキー焼いたりとかはしていました。
今思うとすごいクッキーでしたけどね。

田中
では高校を卒業する頃には将来の進路は決まっていたんですね。

安藤氏
そうですね。その頃は絶対菓子屋になろうと思っていました。
製菓学校に行きたかったんですけど、僕らの時代は製菓学校がなくて調理師学校だけだったので大阪の辻調理師学校に入りました。

授業は1年間で、料理全般の中でお菓子を習いました。
和食、中華がメインで、日本料理の先生から包丁さばきが良いと褒められましたけど、気持ちはやっぱりお菓子でした。

学生時代はレストランで住み込みをし、働きながらウエイターをしていたんです。
そこで接客とかも学んで、そこのシェフが神戸で五本の指に入るデザート職人だったらしく、結構厳しい所でしたけどすごく勉強になりました。

田中
専門学校の卒業後はどちらに。

安藤氏
福岡に帰ってきて「赤い風船」に就職しました。
洋菓子専門で、赤い風船で4年経った時に「福岡イムズ」が出来て、そこにテナントとして「赤い風船」が「アントルメ・ママン」という
お菓子屋さんを開店したんです。そこで1年間お世話になりました。
だから赤い風船で4年、アントルメ・ママンで1年ですね。

その後は、オーナーの松本さんのお店「レーブ・ド・べべ」で5年間お世話になりました。
レーブ・ド・べべがオープンしてから3年目くらいの時でした。
その後、独立しました。

田中
では、修業時代のお話をお伺いしたいのですが、赤い風船時代はどうでしたか?

安藤氏
赤い風船は、楽しかったですね。
同期の子が3人いて、僕たちがいた時代はすごい先輩たちも沢山いて、
もちろん、厳しい面もありましたが、すごく良い環境で楽しかったですね。

ある時、先輩がチーズケーキを焼いていて焦がしてしまったんですね。
それで焦がしたチーズケーキを袋に詰めて外のゴミ箱まで持っていったんです。
シェフが戻ってきて「ムッ!」って臭いをかいで窯の中をみて、ゴミ箱を見て、ゴミ捨て場まで走って行ってそのゴミ袋を持ってきて
「これ誰が捨てたとやぁーっ!!」って言われたり、そんな事もありました。
でもその先輩やシェフたちは、お菓子の話をするとすごく面白くて知識も豊富でした。

田中
「レーブ・ド・べべ」さんでの5年間は?

安藤氏
それは、やっぱり一番勉強になりました。
赤い風船では担当が決められていて、ミキサーとか窯とか粉とかで分かれて、それはそれでとても勉強になったんですけど、
レーブ・ド・べべの場合は自分で何でもしないといけなくて、自分で焼いたスポンジでケーキを作るんです。
でも本当に忙しい時は、ムースを作っている最中にお客様が来てその対応をして、また次のお客様が来てと、ムースひとつ作るにも時間がかかったりしてました。

その中で自分としてはしっかりお菓子を作らないといけない、という思いだけだったんですが「お客様が主体のケーキ屋さんだよ」と言われて、そういうのもしっかり教えて頂きました。
やっぱり松本社長は人間性がすごくあるんですよね。
自分が落ち込んだ時とかでも、考え方を変えて見る事を教えてくれて、気付かせてくれる。
それによってまたしっかり反省して立ち直させてくれる。
ある時、「ここはお前の店と思って好きにしていいぞ」って言ってくれて。
自分も社長に対して怒ったりしていましたから、今考えるとよく辞めろって言われなかったと思います。

そしてやっぱりお店のスタッフというか、身内にこそ厳しいんですよね。
社長がまた何かいい話をしてくれるんじゃないかと思って、社長より先に帰れないんです。
だから「レーブ・ド・べべ」の頃はいろんな面で勉強させて頂きました。

田中
「レーブ・ド・べべ」さんに入るきっかけとかは何かあったんですか?

安藤氏
松本社長は赤い風船時代の先輩だったんです。
それで、松本さんに冗談半分で「今いる所を辞めたら雇って下さいね」と言っていたんです。

その後、冗談でも言った事なので、挨拶だけでもしに行こうと思って行ったら、すごく良いお店を作っていて「もう絶対ここに入ろう」と
思い入れて頂きました。

田中
そして、その後独立をされるわけですね。
お父さんのお店がある北九州ではなく、どうしてここを選んだんですか?

安藤氏
まだレーブ・ド・べべにいる頃にこの辺りを通った時に、何もなくてずっと田んぼで、それで海も近くて素敵な所なので「こういう所にお店を
出せたらいいなぁ」とその頃から思っていました。
ただ、いざここにお店を出す事を親父に言う時は、やっぱり辛かったですね。
今は親父も引退していますけど、当時は親父も「頑張れよ」と言ってくれました。

田中
最初は何人で始められたんですか?
また、オープン当初のお話など教えて下さい。

安藤氏
最初お店には家内と家内の妹がいて、厨房は私とアルバイトの4人で始めました。
オープンする前にチラシを配ったので、オープンの時は来て頂けたんですがその後は売れなくて厳しかったですね。

もちろん金銭面は苦労しましたし、一番大変な時期でした。
朝早くから夜遅くまで仕事をして一生懸命お菓子を作るんですけど、それが余るわけです。そしてそれを処分する。
そのうち「俺は何のために菓子屋をしているんだろう」、お菓子を捨てるために夜遅くまで働いているのかと悩んだ時期もありました。
お菓子に申し訳ないと思って。
そんな時期が2、3年くらい続き、その中で試行錯誤しながら少しずつ売り上げを伸ばしていきました。

でも家内とも言っていたんですが「口コミで来て頂ける様なお店にしよう」って、お客様がお客様を呼んでくれるようなそういうお店にしようと
話し合ったんです。

初めの頃はキャラクターケーキも「アニメのケーキは作らず味で勝負する」なんて考えていました。
でもお客様から言われたら断らないようにしていたので、作らせて頂いたらすごく喜んでもらえて「お店に出して下さいよ」と言われたんです。
その時、思ったのが、親は子供に喜んでもらいたいと思ってケーキを買いに来るわけで、そして僕たちはお客様の喜ぶ顔が見たいから
ケーキを作るわけです。
それを叶えるのがキャラクターケーキだったので、これは作らなきゃいけないと思いました。

田中
お客様からの声があって、それで少しずつお客様に近づいていけたんですね。

安藤氏
本当にそうですね。

田中
今年2008年で何年目ですか?
またどうして「カノン」という店名にされたのですか?

安藤氏
2008年の10月で13年目になります。

店名を「カノン」にしたのは、このお店の図面で工場の位置やショーケースの位置を考えていた時
に流れていた曲がクラシックの「カノン」だったんです。
でも僕はその曲名を知らないので、ただ「良い曲だな」と思いながら聴いていました。

そして家内にお店の名前を相談したら「カノン」にしようと言われて「カノンって何?」とそこで
初めて曲名を知りました。
僕も気に入り、お客様にも覚えてもらえやすそうだったので「カノン」に決めたんです。


田中
菓子職人にとって大切な事は。

安藤氏
やっぱり素直さが大切です。そして「腕磨き」だけじゃダメなんですよね。
たぶん「自分磨き」も必要なんです。
自分磨きせずに腕だけ磨いていたら、どこかで止まってしまうと思います。

お菓子作りに対する気力はやっぱり喜んでくれる人がいてこそのものだと思います。
自分がツライ思いをしていないと人の気持ちもわからないですよね。
修業というのは上下関係があって、その中で怒られて沈んで立ち上がって這い上がって、それでもダメでまた凹んで、でもこれならとまた
自分磨きを頑張る。

お菓子作りも「できない!」で終わらずに「何でできないんだろう?」と色んな見方が出来るようになると思うんですよ。
それがないと楽しくないです。
技術を磨きながら人間的にも自分を磨いていかないといけないんですし、また曲がっても素直さがあれば修正出来ると思うんですよね。

田中
これから菓子職人になろうとしている人にアドバイスを。

安藤氏
まずはやってみる。1年じゃわからない、3年間やってみる。
よく自分に合っている合ってないと聞きますけど、松井選手のお父さんが「才能とは努力出来る事」と言っていたんですね。
だから菓子屋で努力できるかどうかなんです。

いくら下手でもお菓子を作る事が好きだったら良い!
お菓子をやりたいと思ったのであれば、続けていってほしいです。
一生の内に3年や5年はがむしゃらに打ち込む時期があってもいいんじゃないかと思います。

田中
本日はありがとうございました。