田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃はどんな事に熱中していましたか?

前田氏
昭和40年8月25日生まれ、出身は鹿児島県枕崎市です。
熱中した事は、小学校から柔道しかないですね。

今でこそ柔道家と言いますけど、当時は柔道じゃ飯を食えないし、体育の先生しかない時代です。
結局、高校2年生の時に足を事故で怪我して体育の先生は諦めました。

田中
それでは高校を卒業されてからは?

前田氏
勉強は好きじゃなかったので、大学進学は諦めて、何をしようと思った時に、ただ、物作りが好きだからという事で
漠然としたものしかなかったですね。
そして、色々紹介して頂いた中で、フランス菓子16区に行く事になって、それから洋菓子の修業が始まったわけです。

田中
それはやっぱり、実家が和菓子屋さんだったからというのがあったんでしょうか?

前田氏
そうですね。それしか世界を知らなかったので、半信半疑ではあったけれど、そこにどっぷりつかったから、今があるわけですし、
何でもそうですけど、色んな巡り合わせが良かったんですね。

田中
高校卒業とともに16区さん就職されたわけですね。
その後は?

前田氏
その後、3年間は東京と横浜の洋菓子店で修業し、28歳の時にフランスに行きました。

田中
それでは最初に勤められた16区さんはどうでした?

前田氏
洋菓子の修業というよりも「博多弁」という、すごい言葉の壁にぶつかってですね。どこから文章が切れて、
どこで文章がつながっているのかが分からなかった。
ずっと高校まで鹿児島でしたし、そういう言葉しか知らないわけじゃないですか。それがいきなり博多弁でしょう。

あと怖いのが電話を取るのが・・お客様の言葉が分からない。
大人だったら、また違ったかもしれませんが、まだ18歳だったので本当に外国語を聞いているような感覚でした。
だから「仕事が辛い」とかよりも「言葉が分からない」それが辛かったですね。

田中
16区さんには7年いらっしゃったんですね。
仕事の面ではどうでした?

前田氏
そうですね。その頃は人数もすくなかったですし、いろいろ、先輩からも教えて頂いて、勉強も出来ましたし、7年間で大体の事は出来るようにはなっていましたから、16区での7年間は、すごく勉強になりました。

田中
その後、東京とか横浜に行こうと思われたのは?

前田氏
もっといろんなお店を見てみたいと思いました。
東京では自分が希望した所で、それこそトータルでやっているような店に行きました。
1時間半かけて通勤して、時間をしっかり決めて合理的に仕事をやって行く中で、時間の使い方など勉強になりましたね。
そんな事が今、すごく役に立っています。

田中
東京と横浜に3年間いらっしゃったんですか?

前田氏
半分はその頃はシェフをやっていたんです。26歳の後半からですね。
16区を出た人間はすごく期待されるんです。
その頃は家族もいましたし、シェフになってから必死に勉強しました。

田中
福岡から東京、横浜、それからフランスですね。フランスはどのくらい行かれていたんですか?

前田氏
1人で行ったんですが、実際1年弱いたんですけど、仕事をしたのは半年間ですね。
あと半年はヒッチハイクでヨーロッパを回りました。
僕の人生の中で、お金はなかったけど、時間があるのは、たぶん今だけだろうなと思って、オランダからずーっと下りてきて、パリにいたんですが、オランダからスペインの方まで行って、またマルセイユに戻って、ニースでは1ヶ月くらい滞在して、駅で寝たりして・・あちらは駅が一番安全なんですよ。そんな所ばかりで寝てましたね。

田中
フランスでの半年間、仕事の方はどうでした?

前田氏
菓子屋にお世話になりましたが、そこで「日本人は即戦力になる」って言われたんです。
だから仕事があったわけで、冬場でしたし、すごく忙しかったですね。

田中
それで鹿児島に帰って来られて、その頃、実家のお店はされていたんでしょうか?

前田氏
うちの実家は港の方にあって、爺さんの代から60年くらい続けていたんですが、ちょうど、私が帰って来る時に親父がもうそろろそ店を辞めるという話を聞いて、「それなら貸してくれ」と頼んだんです。
それで、お店を借りる事になりました。お店の名前は何でも良かったんですけど、初心だけは忘れないようにしようと思って、
「だるまや」という名前は残しておけば一生忘れないだろうなと思って、名前はそのまま残しました。
そこで6年程、洋菓子店として営業しました。

田中
最初は何人で始められたんですか?

前田氏
最初は一人で。
嫁さんやお袋に販売の方はお願いして、私は朝まで仕事をしていました。
5時前くらいまで仕事して、家に帰って、また9時にはオープンして、それが2・3年くらい続きました。
さすがに、その後は少しずつ人を入れました。

田中
フランス菓子の洋菓子店として最初の頃は売れ行きはどうでした?

前田氏
もうまったくなじまない。
生菓子は売れてましたけど、焼き菓子がまったく売れない。
今は焼き菓子のほうが売れますけど、当時は本当に売れなくて、焼き菓子も捨てるより差し上げてました。
差し上げる方が多かったです。

田中
洋菓子屋として「だるまや」を始められたのは、いくつの時ですか?
また、現在のお店に移転されたのはどうしてですか?

前田氏
31歳の時です。
本当はそこでも良かったんですが、場所柄、店が角地だったので、お店の周辺に車を止められる事が多いし、近所に迷惑をかける事もあったんで、そうした時、たまたまここの土地が売り出しをしていて、それじゃという事で6年後に現在の場所に移ったんです。

田中
こちらに移られて、喫茶コーナーとかあって、広くされましたね。

前田氏
喫茶コーナーこれは必要なんですよ。
だいたい朝と3時以降にお客様が入られるんですけど、前のお店の頃、いろんな方に来て頂いて、3人入られるともう満員で、
外で待って頂いているわけですよ。
そんな中、遠くから来られた方はお店の中で食べられてたりもしていたので、店の外で待って頂けるというのは、ありがたいですけど、
申し訳ないと、それで、移転する時にはゆっくりして頂けるコーナーを広く取りたいと思い、2階全てを喫茶コーナーにしました。

田中
菓子職人にとって大切な事とは?

前田氏
出会いだけは大切にしていますね。
出会いと言うのは、それこそお客様、スタッフ、家族もそうだし、材料にしても、
全ての出会いを大切にしたいと思います。
悪い事も良い事も全部素直に受け入れて、素直に表現する、だから「バカ」になる。
バカさ加減も大切ですけど、思うのはそれです。

なんでも邪険に出来ないし、良い物、悪い物を見分けるためにも全部を見ないと、全部巡り合わせですよ。それを素直に受け入れる事を自分では大切に思っています。
わたしの場合は、なかなか満足しない性格だから続けられる。足りない足りないと思っているから何でも受け入れられる。だから貪欲に受け入れる事でしょうか。


田中
これから菓子職人になろうとしている人にアドバイスを。

前田氏
何の世界もそうだと思うけど、とにかく続ける事ですよね。続けてみないと結果ってすぐには出ないです。

田中
本日はありがとうございました。