田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃の好きな科目と、 熱中した事や
趣味はありますか?

西村氏
やっぱり体育ですよね。
あと、絵を描く事とか結構好きでしたし、
美術とかも好きでした。
部活ではずっと野球で、小学校でソフト、中学校で軟球、
高校で硬式をずっとやっていました。
高校ではそんなに強い学校ではなかったので、
「甲子園目指す」というよりは「私立に勝とう」という
感じでしたね。


田中

西村さんの所は、ご実家が洋菓子店をやっていらっしゃるんですよね?

西村氏
そうです。
でも最初の頃は和菓子もやっていたんです。お餅とかカステラとかも作っていた記憶があります。
父の代から始めたので、もう40年くらいになります。
最初の屋号は「福栄堂」だったらしいです。
和菓子と洋菓子と、饅頭とか作り、自分が子供の頃なので本当に大昔なんですけど、お店は須玖の四つ角にスーパーがあって
そこでお店をしていました。
それでそこのスーパーがなくなるんでここの実家に帰って来てやりだしたという事です。

田中
小さい頃からお父様の仕事を見てこられて、将来はお菓子の道に進もうと?

西村氏
そうですね。でもやっぱり中学校までは、プロ野球選手を目指していたので、やっぱり夢として、でも高校入って先輩のレベルをみて
「これはダメだ」と思いました。
やっぱり親父がやっていたので、将来はケーキ屋になろうかなと漠然と考えていました。

それで高校を卒業してから4年間サラリーマン生活をしてまして、もともと卒業する時にもお店を継ぐつもりではいたので、
すぐに継がなくても社会勉強として会社に就職してもいいかなという考えがあったんです。

だから最初は、明治乳業という福岡支店の会社で、営業をしていました。
明治乳業でもいろんな課があるんですけど、自分が入った所は業務用の商品「生クリーム」とか「バター」とかを卸す所だったので
本当にケーキ屋さん巡りも出来ましたね。すごく勉強になりました。
そこで4年間勤めて22歳の時ですね。それから修業に入りました。

田中
社会勉強の意味でもいい事ですね。どこで修業されたんですか?

西村氏
最初は、埼玉県の越谷市という所にある「キャトーズ・ジュイエ」です。
「7月14日」という意味でフランス革命の日です。
福岡市南区にある洋菓子店で「コイデ」さんの紹介なんですが、お友達の方がいてその方の紹介で入りました。
コイデさんも最初、東京に付いて来てくれたんですよ。
「キャトーズ・ジュイエ」では4年間修業しました。

その後、東京の多摩にある「プリメール」で2年間お世話になり、
それで、もう1年間、神奈川の新百合ヶ丘という所にある、「ルシャンドフルール」というフランス菓子屋さんで勉強してから帰って来ました。
トータルしたら7年間ですね。

田中
どうでしたか、実際、自分が営業としていろんなお菓子屋さんを見て来ての、印象は?

西村氏
実際、東京、関東のケーキ屋さんだったので、最初ケーキを見た時に、あまりの綺麗さにこっちのケーキと全然違ったのでビックリしました。
こういうケーキがあるんだと思って。
こんなにケーキの種類があるんだ〜って感じです。

田中
修業時代はどうでしたか?

西村氏
親父が店をしていても全然手伝わなかったですし、何も知らないまま行ってしまったので「キャトーズ・ジュイエ」では、
最初の1年はすごい社長に叱られっぱなしで、よく怒られました。
今は10数人いるんですけど、店を出された丁度1年後くらいに行ったのでその頃は社長と僕の2人でした。
だからマンツーマンで最初から何もかも教えて頂きました。
作る方も、接客も出たりしていたので、その点ではすごく良かったと思いますね。

この4年間で基本的なお菓子はもう出来るようになって、今自分が作っているお菓子のベースはほとんどここのお菓子だと思います。
それから、他のお店もまわってお菓子のバリエーションを増やしたいと考えていましたので「プリメール」さんにお世話になって、
その後、帰ってもよかったんですが、ここの「ルシャンドフルール」のお菓子がとても綺麗だったので、
飛び込みで「働かせて下さい」と言ったら受け入れてもらえて。
もうその頃は、習うと言うようも、そこのお店の商品を作るという感じでした。

田中
では、一人住まいでアパートに?また、休みの日は、何かされていましたか?

西村氏
そうですね。
お店の近くに部屋を借りて、1ルームユニットバスで風呂トイレ付いて5万〜6万くらいでした。
休みの日は‥‥店が忙しかったので、昼まで寝てるか、後はお菓子屋さん巡り、東京の有名なお菓子屋さん巡りで
食べ歩きをよくしていました。

田中
では、しっかり7年間修業して帰ってこられたんですね。

西村氏
そのつもりで帰ってきたんですけどね‥‥。
福岡に帰って来て、すぐに実家の手伝いはしなかったんです。
やっぱり親父の店は昔からの古い感じの店だったので、そういう店にイキナリ自分が修業で習ってきたようなお菓子を出しても、
売れないだろうなぁと思っていたので・・。

それで、親父を説得して「お店を改装させて下さい!」とお願いしました。4月に帰って来て半年後だから29歳の時です。
改装したのが8月で9月の終わりにリニューアルオープンという形で。
親父も「分かった、後は任せるから好きにしていいぞ」と言ってくれたんです。

田中
それで、リニューアルオープンしたのが何年ですか?そこで、初めて自分のお菓子を出されたんですよね。

西村氏
1998年の9月です。
私のケーキのデビューでした。
気持ちとは裏腹で、ムース主体のお菓子だったので、最初はなかなか受け入れてもらえなくて、苦労はしましたね。
作り手とお客様のギャップがあって、それからはいろいろ考えてロールケーキを出したりしました。

田中
その頃はロールケーキは出してなかったんですか?

西村氏
出してないです。出さないと決めてました。
他店がほとんど出しているので、うちは出さずに勝負しようと、思っていたんですけど難しくて、それでシュークリームとかロールケーキに
力を入れ出してから・・じわり、じわりと。

うちの親父は結構、頑固でもないので自分のいう事は何でも聞いてくれ任せてくれています。良き理解者ですね。
だから、ロールケーキを出したのは3年くらい経ってからですね。

田中
昔からのお客様の反応はいかがでしたか?

西村氏
親父のケーキと僕のケーキに分かれていましたね。やっぱり、バタークリームや黄色くて大きいモンブラン、プリンアラモードが好きな方も
いらっしゃいましたので、そういうのもちゃんと残してました。
残しつつ、新しい自分が作りたいケーキを出してきたという感じです。
ロールケーキも最初は3本、4本から6本、7本とか増え出して、今は20数本は出ているのでそれからですね。
他のケーキも売れるようになって。

シュークリームもクリームを詰めた状態で出してはいたんですが、それをロールケーキが売れ始めたのと同時期くらいに注文をうけてから
クリームを詰めるという形にしたので、お客様にはサクサクのクリームたっぷりシューを食べて頂けるようになりました。
これは、クッキーシューです。
お陰様で、今は老若男女問わず幅広いお客様の支持を頂けるようになりました。

田中
菓子職人にとって大切な事は。

西村氏
やはり楽しく、今は「仕事」って感じじゃないですもんね。
「お菓子を作ってる」って感じなんで、普通のサラリーマンみたいに「今日仕事いやだなー」とか
そういう風に思った事は一度もないですね。
作るのがただ楽しいですよ。

お客様が「美味しかったー」とか喜んでくれるのが一番嬉しいです。
その気持ちを大切に考えています。

田中
これから菓子職人になろうとしている人にアドバイスを。


西村氏
結構大きなお店の方のお話とかを聞くと、長続きしないと言う話を聞くので、何て言うんですか「石の上にも三年」と言うので、
やはり3年はどんなに厳しくても、辛くても3年間は我慢して頑張って欲しいですよね。
あとは好きな事が一番だと思いますね。
お菓子を作る事が楽しいと思えるかどうかです。

田中
本日はありがとうございました。