田中
その先輩がいたからこそ仕事も辞めずに続いたんですね?
鷲埼氏
今でも、苦しいような気持ちになるんです。
思いますけど、組織って一生懸命やっていたら、多分誰かがいい方向に導いてくれるんじゃないかなぁと思っているんです。
そういう事をスタッフにも言うんですけど、まず目の前の仕事を一生懸命に取り組めば見てくれている人は絶対にいるから、それでどんどん人って成長するし、可愛がられていくんじゃないかと、社会ってそういう風に出来ている感じがするんですね。
あの頃、ふてぶてしく仕事をしていたら、その先輩も目を掛けてくれなかっただろうし、自分はがんがんシェフや先輩に怒られているし、しょげていたんだけど、唯一その先輩だけは見てくれていたんだと思います。
脱走した時も、来てくれて、「甘ったれるな」って殴ってくれたんですよ。
その時の事は今でも憶えているし、もう絶対に店に戻らないと決めていましたから、ちょうど2年目で厨房に入りたての頃です。
それで、結局戻って、それから少しずつ仕事を覚えていくわけですけど、少し自信が持てて、そういう風にやっていく中で、今度はどんどん後輩が入ってくるんです。
で、もう先輩って言う風に言われるんですよ。
当たり前なんだけど、自分は先輩なんだって、結局自分は2番手になり、黒ズボンはかせて頂いて、チーフという名刺渡されたんです。
その位から、凄く自分に自信が出てきて、今度は将来的な事を考え出してきて、その当時に結婚もし、それでカミさんと相談していく中で、他の店も考えているけ ど、「ここを出たら俺、独立したいんだ」と言ったんですね。
そうしたら猛反対されて、「どうするのお金がないよ・・まずお金やろ」と言われ「ん〜どれくらいかかるか分からないけど全て借金して始める」って、それからなんですよ。
田中
それで、その後、独立をされるわけですね。
鷲埼氏
そうですね。シェフに相談して、独立するにはどれくらいの資金が必要ですかと聞いたんです。
そうしたら「ん〜二千万弱はかかるだろうな」と言われて「えっ二千万ですか」って見た事もないような金額で、それをどうするかと言うことから始めました。
それと同時に店舗も探し始めました。
シェフには正月に、夏頃をめどに辞める旨を伝えていて、その年の7月いっぱいで退職し、10月にはオープンしたんです。
で、7月に辞めるまでに古賀の物件ですけど、貸店舗の物件を見つけ、1991年10月にオープンしました。
田中
幾つでオープンされたんですか?また、オープン当初はどうでしたか?
鷲埼氏
28歳になったばかりで、当初はカミさんと二人で始めました。変な話、売れるのはよく売れました。
多分二人でやってたから売れてると感じたと思うんだけど、十分やっていけるなっていう手応えは感じました。
最初いろんな事を聞かされて、住宅街じゃなくて、今から立ち上がる街で当時、家もあまりなかったんです。
こんな所で大丈夫かと言うのが大方の意見で、こんな家もない人もいない所で商売が出来るはずがないだろうと言うのが、親戚も家族もまた、周りの友達とかそんな事ばかり言われていたんですね。
ただ、役場で、まず千鳥駅が出来るって言うことを聞かされて将来的に千鳥パークタウンっていう大きな集合住宅が出来るという事を聞かされたんです。
そういうのもあって今は少ないけど、絶対将来的に人が集まってくるし、魅力ある街になるっていう事を僕自身思ったんです。
だから出したんです。旧店舗では8年間営業しました。
田中
お店の「オーヴェルニュ」という名前は?
鷲埼氏
これはフランスの地方の名前なんですよ。
これは独立する前に雑誌でオーヴェルニュ地方の記事を見ていて、もの凄く田舎らしいんですが、オーヴェルニュ地方の人たちは仕事熱心で向上心に富んでて働き者だという事が書いてあったらしくて、「あんたにぴったりじゃないと田舎もんだけど働くのは働くよね」って、ロゴがAで始まるのも気に入ったし、響きが好きでこの名前にしました。 |