田中
16区さんには何年いらっしゃいました?また、その後のはどうされたんですか?
松島氏
そうですね。20歳から33歳まで13年間いました。
30歳過ぎていろいろ考えていた時に自分の店を持ちたいと思うようになったんです。
それで、ムッシュに「1年後の夏に辞めようと思ってます」と言ったんです。
「そうか辞めて何するとか」「田舎に帰って店を出そうと思っております」「そうか俺も忙しいから半年後にもう一回言え」と、それで半年後に言ったんですね。
すると「3ヶ月後にもう一回言え」と、それで3ヶ月後に言ったんですね。
すると「そうかお前辞めると言ってたな、それでどうするとか」「だから帰って店を出します」「場所は決めたとか」って言われまして「いいえ」そうしたら「来週の月曜日に長崎に行くぞ」って「えっ〜はい分かりました」で一緒に長崎に行ったんですよ。
長崎市内、諫早市内、島原市内と回ったんですよ。
その時に、ムッシュが「おっ車止めれ、今、空き家があったろうがユーターンせれ」と言ってその空き地に入ったんです。「ここ場所いいな国道沿いだし、土地も広いし」「ここは何もない所ですよ。こんな所でケーキを作っても売れんですよ」と言ったら「馬鹿か、なんば言いよっとかいちばん大事なのは美味しいケーキを作ればどこからでもお客さんは来てくれる。まして田舎であれば交通手段は車だろうが車を止めるスペースがある、人が来る海水浴場もある」それですぐにムッシュが不動産に電話していろいろ条件を聞いて、「即座に契約や」と言ってたんですよ。
「え〜っと思いました」先見でしょうね。
道路の前にはコンビニがあるんですけど、コンビニがあるって事は車の通りがあるって事なんです。
まして、この千々石は島原半島に行く出入口ですからね。そこで、ムッシュが「一週間ここに車を止めて車の流れを見とけ」って言ったんですよ。一台一台の車がここに入ってきてお客様がお菓子を買われる想像をせろと、そのうちに自分のお店がイメージできると言うんですよ。
やりましたよ一週間。
そうしたらこのトラックの運ちゃんがうちのケーキを買ってニコニコして家族に買って行ってる。
すると、だんだんイメージが沸いてきて、自分にもやれると思うようになったんですね。
それで、ムッシュに報告したんです。はじめは出来るかな〜が・・出来るかもな〜になり、出来ますになりましたね。「いけたろうが・・よし店をやれ」とはじめから自分の煮え切らない性格を分かっていたんでしょうね。
それで、親父に保証人になってくれと「絶対うまく行って見せる」と今までの自分じゃなかったですね。
親父も、やっと本気になったなと分かった金を貸そうと言ってくれて、それで開店準備が始まったわけです。
2000年3月6日にオープンしました。
オープンの3日間の売り上げはそれは凄かったですよ。
初日だけでお客様が630名でした。長崎の業者の方が言われたんですけど、お店が開店して閉店の7時まで商品を切らさなかった。ほとんどの店はオープンなのにもう昼の1時、2時に商品を切らして閉めましたとか、シュークリームとショートケーキが3、4品しかないとか、でもここは店が閉まるまでショーケースの中は満杯でケーキを切らさなかったのは始めて見ましたと。
それを3日間しました。
凄かったですね。でも凄いのは、ムッシュと先輩方ですよ。「お前はケーキを作らんでいい。作るのは俺達で作るからお前は店の前に立っとけ、それでお客様にここのオーナーだと知ってもらえと」言うんですね。
私は3日間お客様に粗品のロールケーキを配るだけでした。
これも長崎の業者さんから聞いたんですけど、普通、店がオープンすると、どの人がオーナーか分からないんですね。
でもお店の前で挨拶している方がここのケーキを作っているオーナーだとすぐに分かりました。
それで万全の体制でオープンできました。
田中
オープンの模様はよく分かりました、それからは順調に行ったんでしょうか?
松島氏
そうですね。オープンして5年目に落ちましたね。
何かこれまでは順調に来てたもんですから、慢心の気持ちが出てきたんでしょうね。
とにかく今までは売れないという時期がなくてそれこそ順調でした。
作れば売れるという状態でしたから、慢心と甘えでしょうね。それがスタッフに伝わって努力をしなくなったんです。
それがお店にも伝わりお客様にも分かったんでしょうね。2005年でした。
それでこれではいけないと思い先輩とかにも相談しました。もちろん渇を入れられました。初心を忘れてはいないかって、お客様をちゃんと見てるかって・・考えた時に発心しまして、それからお客様も増え始めました。
その時に思いましたね。自分の日頃の振る舞いがお店にあらわれるんだとしみじみ思いました。 |