基本的に料理は教わると言うよりも、作りながら覚えていました。
田中
その頃、得意な料理とかは何だったんですか?
一条氏
憧れていたのが「ハンバーグステーキ」とかでハンバーグを挽肉から作るという‥‥。
やっぱり、現実からの憧れにそっていくような、手作りで玉ねぎを炒めてやってみるとか、そういう洋食の料理に幼心が夢見たものを現実に
近づけようとしていたのかなと思います。
それで高校を卒業して、もっと本格的に料理の勉強をしようと思って専門学校に入ったんです。
田中
専門学校はどちらですか?また、卒業されてどちらに就職されましたか?
一条氏
東京池袋にある武蔵野調理師専門学校に1年間行きました。
それで、先生に結構、面倒みて頂いて「君はどこに行きたい?」というよりも「あんたはここにしなさい」という感じで
就職先を紹介して頂きました。
そして入ったのが目白にある「椿山荘」という結婚式場だったんです。
そこはもう料理の世界で20名くらい調理部門に新入社員が入ったと思います。
仕事場には洗い場って言うのがあるんですが、そこでビニールエプロンとズボン一丁で、朝から晩まで洗い物の毎日でした。
そんなのが朝の7時から夜の11時まで、手はもうふやけて、その当時は結構みだれてましたので、そういう所で少しずつ改良して友達とも連係を取りながら、交代で休んだりそんな工夫をしながらでしたね。
見習いですよね。現場に入れてもらえない日々が半年以上は続いてました。
ずーっと、洗い物をしていく中で繁忙期やいろいろ大変な日もあるので、そんな時だけ厨房に呼ばれて手伝っていました。
先輩たちにも優しい先輩もいるんですけど、それとは逆の先輩もいて、大きい冷蔵庫に行って大根で殴られた事もありますし、
仕事が嫌と言うよりその人が怖いというのがありました。
まぁ、その中で世の中の渡り方も教えてもらったり、絶対、先輩制の中では「先輩から指示された時に絶対自分の意見なんか言うんじゃないぞ」と、「はい、でいいんだ」とかそこで教えられましたね。
田中
それでその後は?
一条氏
その後、「椿山荘の銀座店、銀座椿山荘」に移動になり料理の勉強をしました。
だから、僕はどちらかと言えばパティシエだけではなく、料理も出来るパティシエなんですよね。
田中
そこは何料理なんですか?
一条氏
そこがフランス料理なんですけど、メインがカウンターでの鉄板焼き「ステーキ」なんです。
そこでステーキの何たるかを、肉の熟成から食べ頃の時期から焼き方等、全て教わりました。
その当時はバブルの全盛期だったのでお相撲さんや芸能人の方も結構来られてたんです。
その時の接待の仕方とか「舞い上がってはいけない普通に」とか、接客の方もいろいろ教わりました。
それから部署移動があって「ベーカー課」という部署があるんですけれども、そこに配属になって、
そこが「パンとケーキ」を担当しているセクションなんです。
そしてベーカー課は専門職なのでそこからお菓子の道が始まりました。
それはもう希望とかじゃなくて移動で来たんですよ。3年目でベーカーに移動なんて普通はないんです。
やっぱり専門職なので入るとしても、もう1年目新入社員の頃から継続で上がっていく感じなんです。
なんでか知らないけど僕は3年目から配属になって。
もう完全に一からのスタートですよね。それはもう大変でした。
いきなり初日が早番でパンの仕込み番で7時出勤で、7時出勤と言えば1時間前の6時には来ないといけない鉄則みたいなものがあって、
でも前日が移動の送別会をしてもらってて3時くらいまで飲んでて、酔っぱらった状態で6時に出社して、
イースト菌の臭さに舞い上がってしまって、何が何だか分からない状態でイースト醗酵させたりしてました。
それからいろいろ上の先輩に教わって。
まあ先輩なんですけど、職歴的には同期的になりますけど、でもやっぱり先輩なので出来ないといけないので、
その3年の穴埋めというのはかなり大変でした。
だから2年目くらいの後輩もいましたけど、後輩に教えてもらう何とももどかしいと言いますか‥‥。
田中
そこには何年くらいいらっしゃったんですか?
一条氏
平成9年までいたので、10年くらいですね。
ベーカーはパンとケーキの仕事でしたが。
それで最後の2年くらいに系列の「フォーシーズンホテル」が隣に出来てそこの仕事を任せられたりして、ホテルの仕事も結構大変でした。
外国人シェフと言葉が通じないながらも片言の英語で共に働き、美的センスや技術を勉強しました。 |