柴田氏
元々創業の頃、松月堂は駄菓子屋なんですよ。私も子供の頃からたばこを売っていました。だから駄菓子屋と煙草屋ですね。
駄菓子は5円とか10円のキャラメルとかガムとかお店で売っていました。そういう時代に煙草は40円、50円ですから。
自分でも覚えています。ネクタイしている人は70円のハイライトを買うんですね。
それで、私が10歳の頃に親父がカステラを作る勉強に行きまして、家の二階にオーブンを置いたんです。そこでカステラを焼き始めました。
私たちは住む所がなくなった訳です。居住空間は寝る所と台所だけであとは作業場でした。
最初はカステラを作りその後、まんじゅう、最中や羊羹です。親父が習ってきては作ってました。
その後も商品アイテムは増えていきマドレーヌ、レモンケーキとかです。バタークリームの時代ですね。その頃には和洋菓子を作っていました。
田中
大学の時に1年間留学されていますね。
柴田氏
中学校の頃までは親父がこれだけ働いて頑張って・・尊敬します。
ところが高校になった頃には毎日、朝早くから夜遅くまで汗水垂らして正月もお盆も休みなし・・何やっているんだと思うようになったんです。
「俺はサラリーマンになって親父みたいに働かないぞ」と思いました。仕事も何かないだろうかと将来の事を考えていました。
結局、大学も目的がないままに行きまして、最初の頃は大学に行っても面白くなくクラブをするために大学に行ってたようなものです。
ある時に、大学の留学制度を知ったんです。年間3人の学生が留学できるわけですよ。
それを見た時に家を出る「チャンス」だと思いました。
ただし条件がありまして、3年生までの成績がAクラスなど・・そこから目標が決まりました。
1年生の時に3年生までの目標が決まりましたからね。それから猛勉強をしました。
まず、お金を貯める為にアルバイトをし、それと英語をマスターするためにNHKのラジオ英会話を2年間聴いていました。
自分でも驚きで目標が出来たら人間こんなにも変われるものかと思いました。
「お前、大学生活充実してるね」と友人からも言われました・・それで留学は4年生の1年間アメリカに行ったんです。
田中
留学での出来事がパティシェを志したきっかけになったんでしょうか?
柴田氏
はじめは一つの目標がアメリカに行く事だったんです。行ったら次の目標がないわけですよ。
アメリカに行って、現実を見るわけです。
英語が得意な人は山ほどいましたし、頭も良くて世の中、頭で勝負するか、技術で勝負するかのどっちなのかなと・・その時に技術というものが何かないかなとず〜っと探していました。
パソコンが得意でもないし、音楽も絵も得意じゃないしと、自分には何かないだろうかと考えていました。結局見つかりませんでした。
そんな時に文化祭があったんです。
英語を勉強する人たちが世界中から集まって来ているわけですからいろんな国の文化祭があるわけです。
それで日本の催しは、私が少林寺拳法の経験があり空手の事も分かっていたので・・空手の型を見せようという事になったんです。
ある教室でメキシコの学生がケーキを作っていたんですね。それを見て何か「ピーン」と頭に感じたんです。
私はケーキを作れるという自信はなかったんですが、中学校の時から親父の手伝いをしてまして、
本人はそれを技術だと思っていないんですよ。
その時始めて「えら〜い下手くそ」俺のほうが絶対上手に絞れると思いました。
それで、ケーキを作ったら「ブラボー」と言う、みんなの大声援を受け握手を求めてきたり「凄くうまいよ」と声をかけてくれたりして本当に感動してくれたんです。
はじめて自分に技術があるという瞬間でした。
私はケーキ屋になりたくなくてアメリカに行って、アメリカでケーキ屋になるんだという決意で帰って来たんです。
田中
そこからパティシエの修業が始まったわけですね。
柴田氏
そうです。最初は福岡の「セーヌ」で修業し、その後、神戸の「ミッシェル」で修業しました。
神戸の修業の時に親父が病気で倒れ、急遽、熊本に帰ってきました。
その時、病院の先生からうまく行っても半身不随だと言われ駄目みたいに言われていました。でも、8時間の手術の後、生還したんです。
職人は親父一人であとは、パートさんだけでしたから、私が継ぐしかなかったんです。
田中
修業時代のお話をお願いします。
柴田氏
「セーヌ」さんの時代はアットホームで家庭的な雰囲気でやってました。
神戸では朝から晩までの厳しさ”殴られる”んですよ。毎日殴られませんようにと日記に書いていたのを覚えています。
でも貪欲に覚えようと言う気持ちでした。
結局、毎年数人が入ってくるんですけど数年すると一人か、二人になりました。それだけ厳しかったですね。 |