安藤氏
祖父が国東半島で和菓子屋をしていて、2代目になり親父が北九州でケーキ屋をしていたんです。
その影響が強いですね。
田中
では三代目ですね。
安藤氏
ええ、「遊びに行くときはバタークリーム作ってから遊びに行け」とか言われて当時はイヤイヤ手伝いをしていました。
小学校の頃は、後を継ぐと言うと周りが喜んだりしていたのでいつも言っていたんですけど、ケーキ屋で両親共に忙しく、クリスマスパーティーとかもなかったですし、そういうのが嫌で中学生になる頃は、自営業は嫌だ絶対サラリーマンになるって思っていました。
田中
それがどうして菓子職人になろうと思ったんですか?
安藤氏
中学2年生の頃の話なんですが、
親父がしていたお店の周りに居酒屋さんがたくさんあって、夜の11時まで開けていたので酔った方もよく来ていたんです。
ある日いつものように酔った方が来て親父が接客していたら、もう色々悪口や悪態を言うんですけど、それでも親父はニコニコしながら接客していて、それを見て「何で怒らんとー!」って言ったら、「色々言っても最後には家族の為にお土産でケーキを買って頂くだろう?だからね、最後まで笑顔で接客しないと」と言われて。
「そうか、菓子屋はそういう事で人を幸せに出来るんだ」とその時気付きました。
それからお菓子屋の道に進もうと思いました。
まぁ思いながらも‥‥なかなか手伝いはしなかったですけど(笑)。
だけど菓子屋の子供なので、友達に「何か作れるんだろう」とかは言われたりして、友達の家でクッキー焼いたりとかはしていました。
今思うとすごいクッキーでしたけどね。
田中
では高校を卒業する頃には将来の進路は決まっていたんですね。
安藤氏
そうですね。その頃は絶対菓子屋になろうと思っていました。
製菓学校に行きたかったんですけど、僕らの時代は製菓学校がなくて調理師学校だけだったので大阪の辻調理師学校に入りました。
授業は1年間で、料理全般の中でお菓子を習いました。
和食、中華がメインで、日本料理の先生から包丁さばきが良いと褒められましたけど、気持ちはやっぱりお菓子でした。
学生時代はレストランで住み込みをし、働きながらウエイターをしていたんです。
そこで接客とかも学んで、そこのシェフが神戸で五本の指に入るデザート職人だったらしく、結構厳しい所でしたけどすごく勉強になりました。
田中
専門学校の卒業後はどちらに。
安藤氏
福岡に帰ってきて「赤い風船」に就職しました。
洋菓子専門で、赤い風船で4年経った時に「福岡イムズ」が出来て、そこにテナントとして「赤い風船」が「アントルメ・ママン」という
お菓子屋さんを開店したんです。そこで1年間お世話になりました。
だから赤い風船で4年、アントルメ・ママンで1年ですね。
その後は、オーナーの松本さんのお店「レーブ・ド・べべ」で5年間お世話になりました。
レーブ・ド・べべがオープンしてから3年目くらいの時でした。
その後、独立しました。
田中
では、修業時代のお話をお伺いしたいのですが、赤い風船時代はどうでしたか?
安藤氏
赤い風船は、楽しかったですね。
同期の子が3人いて、僕たちがいた時代はすごい先輩たちも沢山いて、
もちろん、厳しい面もありましたが、すごく良い環境で楽しかったですね。
ある時、先輩がチーズケーキを焼いていて焦がしてしまったんですね。
それで焦がしたチーズケーキを袋に詰めて外のゴミ箱まで持っていったんです。
シェフが戻ってきて「ムッ!」って臭いをかいで窯の中をみて、ゴミ箱を見て、ゴミ捨て場まで走って行ってそのゴミ袋を持ってきて
「これ誰が捨てたとやぁーっ!!」って言われたり、そんな事もありました。
でもその先輩やシェフたちは、お菓子の話をするとすごく面白くて知識も豊富でした。
田中
「レーブ・ド・べべ」さんでの5年間は?
安藤氏
それは、やっぱり一番勉強になりました。
赤い風船では担当が決められていて、ミキサーとか窯とか粉とかで分かれて、それはそれでとても勉強になったんですけど、
レーブ・ド・べべの場合は自分で何でもしないといけなくて、自分で焼いたスポンジでケーキを作るんです。
でも本当に忙しい時は、ムースを作っている最中にお客様が来てその対応をして、また次のお客様が来てと、ムースひとつ作るにも時間がかかったりしてました。
その中で自分としてはしっかりお菓子を作らないといけない、という思いだけだったんですが「お客様が主体のケーキ屋さんだよ」と言われて、そういうのもしっかり教えて頂きました。
やっぱり松本社長は人間性がすごくあるんですよね。
自分が落ち込んだ時とかでも、考え方を変えて見る事を教えてくれて、気付かせてくれる。
それによってまたしっかり反省して立ち直させてくれる。
ある時、「ここはお前の店と思って好きにしていいぞ」って言ってくれて。
自分も社長に対して怒ったりしていましたから、今考えるとよく辞めろって言われなかったと思います。
そしてやっぱりお店のスタッフというか、身内にこそ厳しいんですよね。
社長がまた何かいい話をしてくれるんじゃないかと思って、社長より先に帰れないんです。
だから「レーブ・ド・べべ」の頃はいろんな面で勉強させて頂きました。 |