田中
西村さんの所は、ご実家が洋菓子店をやっていらっしゃるんですよね?
西村氏
そうです。
でも最初の頃は和菓子もやっていたんです。お餅とかカステラとかも作っていた記憶があります。
父の代から始めたので、もう40年くらいになります。
最初の屋号は「福栄堂」だったらしいです。
和菓子と洋菓子と、饅頭とか作り、自分が子供の頃なので本当に大昔なんですけど、お店は須玖の四つ角にスーパーがあって
そこでお店をしていました。
それでそこのスーパーがなくなるんでここの実家に帰って来てやりだしたという事です。
田中
小さい頃からお父様の仕事を見てこられて、将来はお菓子の道に進もうと?
西村氏
そうですね。でもやっぱり中学校までは、プロ野球選手を目指していたので、やっぱり夢として、でも高校入って先輩のレベルをみて
「これはダメだ」と思いました。
やっぱり親父がやっていたので、将来はケーキ屋になろうかなと漠然と考えていました。
それで高校を卒業してから4年間サラリーマン生活をしてまして、もともと卒業する時にもお店を継ぐつもりではいたので、
すぐに継がなくても社会勉強として会社に就職してもいいかなという考えがあったんです。
だから最初は、明治乳業という福岡支店の会社で、営業をしていました。
明治乳業でもいろんな課があるんですけど、自分が入った所は業務用の商品「生クリーム」とか「バター」とかを卸す所だったので
本当にケーキ屋さん巡りも出来ましたね。すごく勉強になりました。
そこで4年間勤めて22歳の時ですね。それから修業に入りました。
田中
社会勉強の意味でもいい事ですね。どこで修業されたんですか?
西村氏
最初は、埼玉県の越谷市という所にある「キャトーズ・ジュイエ」です。
「7月14日」という意味でフランス革命の日です。
福岡市南区にある洋菓子店で「コイデ」さんの紹介なんですが、お友達の方がいてその方の紹介で入りました。
コイデさんも最初、東京に付いて来てくれたんですよ。
「キャトーズ・ジュイエ」では4年間修業しました。
その後、東京の多摩にある「プリメール」で2年間お世話になり、
それで、もう1年間、神奈川の新百合ヶ丘という所にある、「ルシャンドフルール」というフランス菓子屋さんで勉強してから帰って来ました。
トータルしたら7年間ですね。
田中
どうでしたか、実際、自分が営業としていろんなお菓子屋さんを見て来ての、印象は?
西村氏
実際、東京、関東のケーキ屋さんだったので、最初ケーキを見た時に、あまりの綺麗さにこっちのケーキと全然違ったのでビックリしました。
こういうケーキがあるんだと思って。
こんなにケーキの種類があるんだ〜って感じです。
田中
修業時代はどうでしたか?
西村氏
親父が店をしていても全然手伝わなかったですし、何も知らないまま行ってしまったので「キャトーズ・ジュイエ」では、
最初の1年はすごい社長に叱られっぱなしで、よく怒られました。
今は10数人いるんですけど、店を出された丁度1年後くらいに行ったのでその頃は社長と僕の2人でした。
だからマンツーマンで最初から何もかも教えて頂きました。
作る方も、接客も出たりしていたので、その点ではすごく良かったと思いますね。
この4年間で基本的なお菓子はもう出来るようになって、今自分が作っているお菓子のベースはほとんどここのお菓子だと思います。
それから、他のお店もまわってお菓子のバリエーションを増やしたいと考えていましたので「プリメール」さんにお世話になって、
その後、帰ってもよかったんですが、ここの「ルシャンドフルール」のお菓子がとても綺麗だったので、
飛び込みで「働かせて下さい」と言ったら受け入れてもらえて。
もうその頃は、習うと言うようも、そこのお店の商品を作るという感じでした。
田中
では、一人住まいでアパートに?また、休みの日は、何かされていましたか?
西村氏
そうですね。
お店の近くに部屋を借りて、1ルームユニットバスで風呂トイレ付いて5万〜6万くらいでした。
休みの日は‥‥店が忙しかったので、昼まで寝てるか、後はお菓子屋さん巡り、東京の有名なお菓子屋さん巡りで
食べ歩きをよくしていました。 |