やってみようと、結局は高校でも野球部に入りました。やっぱり一番熱中したのは野球でした。
田中
パティシエを志したのはいくつの頃ですか?
廣瀬氏
小学校の頃、将来なりたい職業が「プロ野球選手」と「コックさん」だったんです。
中学、高校もずっと同じ夢を追いかけていたんですが、プロ野球選手は厳しいなと諦めました。
それならコックになろうと専門学校のパンフレットを見ていたら、「お菓子の学校が出来ました」というハガキが一緒に入っていて、
お菓子を作った経験はまったくなかったですが、甘いものも好きでしたし、お菓子屋さんになりたいと、
その時に思って、それで大阪の辻製菓専門学校に行きました。
当時は福岡の中村学園の製菓コースがなくて、東京か大阪にしか学校がなく、「調理界の東大に行こう」みたいなキャッチフレーズがあり、
料理の道を進むなら、そこの学校に行くのが良いみたいな時代だったんです。
田中
そうですね実際、廣瀬さんの年代の方は辻製菓専門学校に行かれた方が多いですよね。
廣瀬氏
多いと思います。今はもう料理の学校も各県に1校以上ありますからね。
田中
辻製菓専門学校に行って、それからお菓子の業界に行こうと思われたんですか?
廣瀬氏
そうです。結局1年コースだったために入学して3ヶ月、4ヶ月したら、進路を考えないといけなくて、自分の中ではその時「どうしよう」と考えた時期があって、自分で決めたのが1月の末で、普通の人達は年末までに進路が決まる所、自分は1月30日に決まって本当にギリギリでした。
田中
それからフランス菓子16区に面接に行かれたんですか?
廣瀬氏
そうです。16区の面接に行きました。
その頃、父親に「お菓子屋の道を進むならここしかないぞ」と言われていたので、もうそのまま申し込みさせて頂いて、面接に行きました。
うちの親父は普通のサラリーマンだったんですが、ある方に相談していたら、「16区しかないだろう」と言われたそうなんです。
その頃、16区が出来て4年ぐらいの頃でセンセーショナルでした。よく分からないなりにも「他とは違うな」という印象でした。
厳しそうなイメージでしたが、今はもう「修業」とかいうのは死語になっているのかもしれないですけど、当時はまだ残っている時代で、
きっと自分のためにも厳しいほうが合っている気がしたんです。
16区に入ったのは19歳の時です。
田中
フランス菓子16区に入った当初は、また、修業時代はどうでした?
廣瀬氏
何より時間がなかったですね。
今でも忙しいですけど、当時もすごく忙しくて、パティシエだけで10人ぐらい、販売も合わせるとちょうど16人ぐらいでした。
居場所がない感じで、卵のケースの上に板を置いて作業をする事もあり、人が動くと仕事が出来なくなるから先輩でも「あれとって頂けますか」と言わないと、すぐ怒られていました。
歩いていると邪魔になるので、最初の頃は先輩に対してそれがなかなか言えなくて。
当初のテナントのお店では4、5年ぐらい働かせて頂いて、あとの残りは今の新社屋で働かせて頂きました。
もう完全に違いますね。
随分広くなりましたし、広すぎて掃除も大変でした。ある程度、責任を持たせて頂く立場にもなり、作業の確認にも行くわけです。
16区の厨房は1階、2階、3階まであり、セクションごとに分かれていたので、もちろん元々もセクションに分かれていたんですが、一面で仕事をするのと階分けで仕事をするのではまったく違っていて、一面の頃は離れていてもどれぐらい仕事が進んでいるか分かっていたんですけど、
階が分かれると、作業を確認しに行くのも大変でした。
階が分かれて、意志の疎通というものも、最初は三嶋社長も気にされていました。
僕は29歳の時、10年目の時に一度、16区を辞めているんです。
それでフランスに行ったんです。
フランスには1年半程、行っていました。
帰ってきたらちょうど16区でシェフをされていた先輩が独立されるという事で、それに合わせて帰ってきたわけではないのですが、
帰ってくるタイミングが合って、それからまた5年間16区でお世話になりました。
田中
やっぱりお菓子と言ったらフランスに行かなければ、と言う想いはあったんですか?
廣瀬氏
・・・・・ないです。まったくなかったんです。
僕はちょうどその頃、10年という時期なので、そろそろ自分としても身の振り方を考えなくてはいけないなと考えて、
お店を出そうとか言う事じゃなくて、そんな時に、三嶋社長から「フランスに行ってみろ」と言われて。
でも、突然フランスって言われても、行きたくなかったのが正直な所で、それは行きたい人に申し訳ないと思い、
しばらく答えを出せなかったんです。
その話を頂いたのが夏前ぐらいで、その後、10月ぐらいに16区に、たまたま偶然フランス人の方が来られていて、
福岡で講習会があったんです。それで16区を見に来られまして、三嶋社長とフランス人の方が話している中で、「こいつフランスに行くから宜しく頼む」みたいな感じで僕が紹介されたんです。
それがもう、そこまでしてもらえるのが有り難くて、それで僕はそのフランス人の方のお店にお世話になる事になったんです。
行くまでの期間はフランス語の勉強をしたりして、翌年の6月にフランスへ行きました。 |