田中
パティシエを志したのはいくつの頃ですか?
山下氏
高校の2年生までは学校の先生も良いかなぁと思ったんですが、3年生になってお菓子、洋菓子に行きたいと思いました。
洋菓子の方が華やかに見えたんでしょうね。
高校を卒業しまして、卸やさんの紹介で福岡の「セーヌ」さんへ就職しました。
結局セーヌさんだけの修業になってしまったんですけど、13年間修業させて頂きました。
田中
長く「セーヌ」さんにいらっしゃいましたね?
山下氏
そうですね。
昔は結構長く居るのは当たり前だったんですけど、今は一所に長く居るのは少なくなり、2〜3年したら移っている子が多くなりました。
僕の場合は居心地が良かったのもあるんでしょうし、やっぱりひと所はひと所なりの勉強の仕方もありました。
本当に何も知らなくて入りましたから、最初は大変だったです。
プリンなんか冷凍して冷やして固めるもんだと思っていましたから、蒸して焼いたりとか全然知らなかったですから、そんな知識の状態から入りましたからね。
人数も少ない時期だったですから、入ってすぐ夜の10時、11時まで、朝は6時くらいから仕事、本当に足が痛くて倉庫にモノを取りに行っては座ったりしていました。
まして、全然分からず入ってきているからこんなにキツイんだと思いながら仕事をしてました。
でも、辞めたいと思ったことは不思議と一度もありませんでしたし、入ったときからお店を持ちたかったので、早く仕事に慣れたい、技術を身に付けたいとの思いでした。
田中
修業時代はどうでした?苦労した事や楽しかった事は?
山下氏
師匠はものすごく優しいんですよ。
でも出来るまで何回でもやらせます。「それでいい」じゃないんですよ。
ある程度出来てても”ぼそっと”「こうしたらいいよ」みたいな事を言ってやり直させられるんです。
妥協しないから、ある意味厳しいんでしょうね。
出来るまでやらせられる方だったんで基礎はみっちり教えて頂いたと思います。
僕はアパートに一人住まいで、朝が苦手で、ほんと、起きれなくてそれが一番苦労しました。
楽しかった事は、お店にも出るようになり、お客様と仲良くなったりとか接客も教えて頂きましたし、楽しかったですね。
最初の1〜2年、休みの時はキツくて寝てばかりでした。
慣れてきたらいろんなお菓子屋さんを見に行ったり、友人と休みが合わないので、土日、仕事が終わって大学生の友人とマージャンをしたり、若いから出来た事でしょうね。
ある程度の年数になると、名島に支店があってそこのお店を任せてもらったりとかしていました。
接客、製造、管理と自分のお店を持つ時にそれが凄くいい経験になりました。
田中
自分でお店を出そうと考えたのは?また、お店を出したのは?
山下氏
25歳過ぎてから、自分の中でお店の構想を考えるようになりました。僕も一人で出てきているから、蓄えはないし、セーヌさんにも若い子が育ってきていましたし、この時期に辞めないと無理だろうと思って相談しました。
それで許しを頂きました。
1度、僕が3年目か4年目に他でやろうという事があって当時の洋菓子協会の会長のお店に行ったんです。
そうしたら、そこで「ほんとにセーヌさんのお菓子を全部学べたのか」って言われまして、そう言われると・・・「もう少し頑張ったみたら」と言われた経験があったので、とことんセーヌさんで学ぼうと思いました。
よくいろんなお店の事を勉強した方がいいと言うじゃないですか。
それは独立してからでも、自分がやろうと思えば出来ると思いますね。
お店をオープンしたのは1994年4月、30歳の時に小さいテナントでした。現在のお店のすぐ近くで工場も含めて14坪です。
この場所に決まったのは、東の方はセーヌさんがあるんで無理だろうと思っていましたし、西の方とか南の方を探しましたが、どうしても見つからずに、でも師匠が「東の方も探したら」と言ってもらったので、古賀とか探して、そうしたら福間に物件がありまして、ここならいいかなって思って、漠然とした気持ちでやり始めました。 |