れほどバイクに夢中になりました。あとは高校時代に極心空手をやっていました。
田中
今のイメージとは全然違いますね。
片嶋氏
そうですね。どういう髪形をしたらいいのか分からずに高校時代は角刈りにしていました。
高校は商業高校だったんで女性が多く、そんな色気より野郎と遊ぶほうが楽しかったです。そんな青春だったですね。
田中
将来の事を考えるようになったのは、また、パティシエを志したきっかけは?
片嶋氏
考えるようになったのは、父がお菓子屋で独立していましたから、そうですね中学の時です。
その為に商業高校に行ったのも将来商売をする為です。
高校の時には僕は跡継ぎだろうと、高校を卒業したらすぐに修業に行きました。神奈川の「ロンポワン洋菓子店」で5年間、同じ神奈川の「ニコラス洋菓子店」で2年間修業しました。
その後、この世界にいるんだったら一度は、本場フランスのお菓子を勉強してみたいとフランスへ行きました。
フランス、ベルギーと3年間で5店舗のお店で勉強をさせて頂きました。
その後、福岡に戻り「カカオロマンス」で2年間お世話になり、1997年の11月にここ筑紫野市原田でル・サントーレをオープンしました。
田中
修業時代のお話をお願いします。
片嶋氏
神奈川の「ロンポワン洋菓子店」では、はじめに、ここに入った時に5年居ろと言われていましたし、
マンツーマンでしたので、大変勉強になりました。
一からだったんで、不満がないって言うか相談相手もいない、全て間違えた事は一人しか居ませんから全部、僕が悪いんですよ。
だから言い訳も出来ない、逃げ場もない、そういう状況でした。
住まいは四畳半一間でボロボロ、真ん中に通路があって裸電球も壊れているような、夜中に帰ると通路が分からないんですね。
下が鉄工所でアパートには誰が住んでいるか分からない。住めば都で7年間そこで暮らしました。
当時、探してもらった中で一番安いアパートだったんです。
次の「ニコラス洋菓子店」では5年間修業していましたので、中堅で入りました。
いろんな仕事をさせて頂きました。
ここで貯めたお金でヨーロッパに行ったんです。
田中
フランスでの勉強はどうでした。
片嶋氏
いじめられているのが分からないって言うか・・最初はグラムを測るだけで疑われて、そうですよね、分かっているのか、分かってないのか分かりませんから何言っても「ハイハイ」しか言わないから。
単語は分かるんですけど、粉を取って来いと言っているのが分からない。
たとえば砂糖何グラム計って、「階段の下の右にあるからそれを取って来い」とその単語が分からないわけですよね。
それで下に行ってこの粉かと持ってきて来たら・・違うと、向うはイライラするわけですよ。
最初フランスに来た時に辛かったのは、言葉が分かる中で日本人(ジャポネ)と言われている言葉だけピィーンと入るわけです。
あの日本人がやったみたいに言われているんだなぁと、「やられているなオレ」と思いながら、自信安危になって落ち込むようなことはいっぱいありました。
言葉が通じるまで大変だったですし、言葉を覚えるのに一生懸命でした。
だから教えてくれるって言うより見て盗んで、やれって言われたらそれをやるような感じです。
言葉が出来ない代わりに仕事が出来ないとやっぱり辛いんで、まぁ仕事がある程度出来るようになっていましたから良かったんですけど、言葉の壁はかなりありますね。
自宅に帰って言葉の勉強と仕事の勉強をしていましたから睡眠時間はかなり短かったです。
それから次の店に行きまして、レストランだったんですけど、食事の間に食べるようなチョコレートやデザートを作ったりしました。
言葉が分かるようになったら自分の下にアプランティっていうか見習いの子を就けて「使っていいよ」と、楽しかったですね。
それからはシェフの下に就いて仕事をしました。
ベルギーのサントーレでは仕上げでがんばってました。
そのシェフが辞めてしまったんで次のシェフの引継ぎは全部僕がやりました。
そういう面ではいろんな勉強になりました。それからですね福岡に帰ってきたのは。 |