田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃、好きな勉強やどんな事に熱中して
いましたか?

佐藤氏
昭和45年12月10日生まれ。出身は熊本市です。
小学校の頃は体育と図工が好きでした。

また、小学校の頃から野球のクラブがありましたので
朝から野球、家に帰っても毎日野球の日々でした。

田中
菓子職人を志したきっかけは?


佐藤氏

菓子職人を志したきっかけと言うのはないですけど、以前は小さな店舗で、父がパンと洋菓子のお店を開業していましたので、よく工場で遊んだり、たまに手伝いをしたりしていました。
子供の頃から何になりたいとかもなくて、純粋に父の跡を継いでお店をやろうとは子供ながらに思っていました。
たぶん小学校3年生頃の作文では将来はパン屋になりたいと書いたのを覚えています。

でも、親からは「やってくれとか、やってほしいとか」言われた事はないですね。
ただ、自分の中では子供の頃から、父の跡を継いでお店をやるんだと当然のように思ってましたので、高校を卒業して東京製菓専門学校に行きました。

田中
洋菓子の専門学校を卒業されて、修業をされたんですね。
その頃のお話をお願いします。

佐藤氏
専門学校を卒業後、そのまま東京の洋菓子店2店舗で修業しました。
トータルして東京に7年いました。
修業時代は普通に怒られたりするのが当たり前の世界でしたので、きついとか辞めたいとかはなかったですね。
ただ、好奇心が旺盛で、いろんな事を覚えて帰りたいというのがありましたので、無我夢中でしたし、よく勉強もしました。

東京ではひとり住まいで、少しでも家賃が安い所を探すと、当然、お店から遠くなり電車とバスを使っての通勤でしたね。
朝も早いし、夜も遅い、繁忙期の頃は始発で通勤し、最終で帰る。また途中下車という事もありました。
そんな中で一番苦労したのは食事の面です。
遅くなったらコンビにとか牛丼屋くらいしか開いてなくて、晩飯を食べるタイミングが大変でした。

レストランなんて高くて入れませんから、いつも今日の晩飯は何にしょうかと考えていたのは覚えています。
三度の飯なんてとんでもなくて、食べる時に腹いっぱい食べるという食生活でしたね。

結局、長い通勤時間のお陰で、何もすることがなくて、お菓子の事、将来の事、また仕事のことで失敗した事や勉強になった事・・
いろんな事を考える時間ができ、その時間が自分にとっては大切な時間になりました。
だから今でもアイデアがあると頭の中で考えて、形にしてイメージで作り始めます。

田中
ガトーアンリーさんの創業は今現在の場所だったんですか?また、その頃からパンとケーキを販売されていたのですか?

佐藤氏
現在のこの場所の道を挟んですぐ近くです。この場所に移ったのは私が16歳の頃です。
私で2代目ですけど、創業当時からパンとケーキを作っていました。
私には弟がいるんですけど、弟が「自分はパンをするから」と言ったもんですから、じゃ俺はケーキをするということになったんです。
弟は現在パンのお店を独立して開業しています。

田中
ガトーアンリーの名前の由来は?また、創業何年ですか?

佐藤氏
名前の由来は「ガトー」はお菓子で「アンリー」は親父が好きな画家の名前らしいんです。
たぶん「アンリ」でしょうね。創業は1975年ですので2008年で33年です。
たまに2代目になったら名前を変えたり、違う事をやるとかありますが、私は受け継ぐものは受け継いで継承していくというのが
基本にあります。

田中
佐藤シェフの代になって何年になりますか?また、オーナーになってからの想いはありますか?

佐藤氏
2008年で3年目です。
日々妻と多くのスタッフに支えられながらお菓子作りに励んでおります。
私は継続を大切に考えています。また、時代によって変化していくというのも考えています。
商品開発などは1年くらいかけて開発します。

また、うちの基本は”人”です。人が作って人が売ることなんで、人間としての成長をみんなでしょうという事、
人間力と言うか人間の向上心をつけていきたいと思います。
父は”人”を大切にする職人だったんで、私も”人”を大切に考えてやっていきたいと思っています。

田中
お菓子はイメージで作ると言われましたが、そのイメージとは?

佐藤氏
私は、好きな科目を図工といいましたが、絵や字が下手ですから書きたくないんですよ。
だから、まず頭の中でイメージするんです。頭の中に映像があって、その映像が白黒からカラーに変わる瞬間があるんです。
それが「形」として、「おっ」と思う瞬間です。それを実際に作業で形にしていくわけです。
味はその時に大体こんな味でという事からはじまり最後は微調整していきます。

創意工夫しながら商品を創るわけです。
私が「こんな感じとかあんな感じ」とかなりますから、一緒にやるスタッフも困りますね。
最初にレシピはありますけど、最後と全然違うものになります。だから味もまったく変わってきます。
味は自分がこれだと思うんですけど、少しずつ変わってきます。

新しい材料とかあったら「これ入れてみょうか」という感じで、それでイメージが形になるまで一回投げるんですよ。
そして、2〜3ヶ月してまた始めたりするんです。
焼き方や混ぜ方を変えたりして、それで最終的に商品としてレシピが出来上がります。

でも、どんなに自分が満足した商品でも実際、売るのは難しいです。創るの半分、販売半分ですから。
理想はひとつの商品を一生やっていくというのが理想ですけど、お菓子はそんな商売じゃないですから、季節によってもデコレーションやケーキ類は次から次へと変わります。
しかし、私がイメージして創ったお菓子に関しては一生変わらず残せるようにしたいですね。

田中
佐藤シェフの代になってのお菓子に対する想いは?

佐藤氏
とにかく私たちはフランスやアメリカではなく日本に住んでいます。
私は日本人のお菓子を表現したかったんです。日本の素材を使った洋菓子という事です。
どこにもない日本の洋菓子を創りたかったんです。
「和の素材」というのは「日本の素材」なんです。
餡子って毎日食べても飽きないでしょう。漬物と一緒です。

私は思うんですけど、フランス料理や中華料理、イタリア料理にしても、一回食べたら、
しばらくはいいでしょう。でも、ご飯や味噌汁は毎日食べても飽きない。
日本人だから、日本に住んでいるからですよ。
日本に住んでいるとその味覚が出来ていると思うんです。


だからそんな洋菓子を創りたいんです。日本人が創る日本のお菓子です。
自分の代で3商品くらい残せたらいいと思ってます。
私には子供がいるので、継ぐ継がないは本人次第ですけど、子供の代になった時に、その商品があれば嬉しいと思います。

田中
菓子職人にとって大切な事は?

佐藤氏
忍耐、感謝だと思います。
それと、何でも吸収する事、全てが勉強です。
よく修業時代にどうしてもこの仕事をしたい、覚えたいという気持ちばっかりでした。

修業時代は覚えるのが精一杯でしたが、熊本に帰ってきてからが本当の勉強でした。
慣れるまで自分との葛藤が3〜4年程かかりました。

スタッフや家族、親が居て、実際商売をしなければならないわけですから、自分勝手には出来ないわけです。
そういった意味では毎日が勉強です。そして、私は2代目でこのお店を継がせてもらったんですけど、
子供たちにこのお店を継承していくのが私の最大の仕事だと思います。
子供の意思を尊重したいと思いますので、継ぐかは分からないですけどね。

田中
これから菓子職人になろうと思っている人にアドバイスがあればお願い致します。

佐藤氏
どうせやるんだったら、あきらめずに一生の仕事にして欲しいです。
不器用なら不器用でも一生懸命やればいいし、自分の中で真面目にどんな人でも人を裏切らずにやればそれなりに生活は出来ます。
菓子職人って地味な仕事です。物づくりは好きじゃないと出来ない仕事でしょう。
でも、創る喜びはあります。

私はイメージして、点と点がつながる瞬間が好きなんです。
でも、そんなにうまくはいかないです。だからお菓子作りには醍醐味もあるんです。

田中
本日はありがとうございました。