田中
お菓子の事を意識し始めたのはいつ頃ですか?
霜上氏
意識したのは、遅くて高校3年の夏でした。
本当はですね、祖父の時代から、この場所でお菓子屋をしていて、2代目の父の代になってからは、父は職人じゃなく、経営者になったんで、
僕もそこまでは、菓子職人になりたいとは思っていませんでした。
しかし、高校3年の時に祖母が亡くなる時、今では真相はさだかじゃないですが、最後に交わした言葉が「あとは頼んだよ」と言われ、
そこから自分の中で、はじめてお菓子の道に進もうと思ったんです。
僕の中ではいずれは継ぐのかなっていうのもあったし、お店の事をやってくれって事なのかなぁと思ったんです。
田中
その事はお父様には話されたんですか?
霜上氏
「お菓子の道に進もうと思うけど」と話しました。「そうかそうか」と喜んでくれたのを覚えています。
それから製菓の学校がないか、いろいろ探しました。
田中
それで、製菓の学校はどこに決められたんですか?
霜上氏
東京に絞って探しました。
その時に見つけたのが、2年間学べる東京の製菓学校です。
最初の1年間は順調だったんですけど、1年の秋からケーキ屋さんでバイトを始めて、そこはケーキ屋さんの奥がお酒も出る
レストランだったんです。
それで、夕方から入ってお店が閉まるのが夜中の12時、片付けをして終了するのが夜中の1時でした。
そこにいたマスター夫婦の息子がたまたま同じ年だったんですね。
その息子の友達も同じ年で、当然話も合うし、それで遊んでばっかりで、学校に行かなくなってしまって、2年の夏の時点で卒業できないという話が実家に連絡が入ってまして、当時、高校を卒業して、美容師として上京していた友人が僕に連絡がつかないからと・・両親が友人に連絡をしていて、その友人から「お母さんが心配しているよ」と言われたんです。
そこで、たまたま、そのお店の常連さんが、熊本出身で外務省の飯倉公館に勤務の方で、そこはいろんな外国の要人が来る時に会議や晩餐会とかやる場所でもあるんです。当然ホテル関係にもコネクションがあるわけです。
その方が僕に「ホテルとかに興味ないの」と言われたんですが、その頃は何も知識がないし、「有名ホテルに行けるぞ」と言われて、本当に興味本位で話を聞いて、その事を両親に言ったら、「おまえ、どんなつもりで学校に出したと思ってるんだ。まして卒業してなくて、もってのほかだ」って猛烈にしかられたんです。それで、その話はなしになってしまいました。今、思ったら当然なんですけどね。
その時にそのまま行っていたら、今の僕はないと思うし、その辺で、いろいろ紆余曲折があって、そこで心を入れ替えたっていうか学園祭も実行委員をやって、ようやく学校の恩赦的部分もありながら2年間で卒業できたという事です。
同級生のみんなは夏から就職活動をするのに、僕は3月になってから、やっと学校から推薦が出たんですよ。
田中
そうですか、卒業するまでが大変だったんですね。それで、卒業されて何処に入られたんですか?
霜上氏
面接に行った所が世田谷にある「成城アルプス」という所で、当時から有名店で、僕はそんな事も知らずに、
学校の求人票を見て「先生ここに行きたい」と言ったんです。
「学校に来ない奴が、厳しいのに行ける訳ないだろう」と言われたんですが、とりあえず面接だけでもという事で行かせてもらいました。
面接に行ったのが、3月3日だったんです。社長に面接して頂いて、その場で採用と言われたんです。
それを学校に報告すると、びっくりして、その時に言われた事は「学生気分のような態度だと当然、勤まらないからな」と言われました。
田中
どのくらいの期間いらっしゃったんですか?また入社初日はどうでしたか?
霜上氏
7年間いろんな事を勉強させて頂きました。
入社の前日に人事を担当されているチーフの方とお話をして、「この業界はとにかく縦社会で、先輩、上司、社長の言う事は絶対だからね」と
先輩がカラスは白いと言ったら白なんですよ。いざ入ったらそういう事なんだと思いました。
今でこそ、この業界は女性も多いけど、当時は10数名全員男性ばかりで、そんなこんなでドキドキしながら初日も終えて、
2日目も頑張って行こうと決めていたら1時間半寝坊したんです。僕は同期もいなかったし、当然携帯もない時代だったし、電話があっても入ったばかりの後輩の電話番号を知っているのは社長ぐらいですよ。
当然電話も掛かってこない。今日で駄目かなって思いながらでも、恐る恐る行くと、逆に大遅刻過ぎたのが良かったと思いますけど、入った瞬間に全員から大爆笑されて「よかったよ〜辞めたかと思ったよ」と言われて、それで緊張がほぐれたんです。
同期もいない、凄く厳しいところに入ったなぁと緊張した一日目だったんで、その事でちょっと気持ちもほぐれて、だからって仕事が楽とか当然なかったんですけど、それによって、なじめるきっかけになったんです。
遅刻は駄目ですけど、良かったかなぁと思いました。
田中
7年間は長いと思いますが、どんな修業時代でした?
霜上氏
分かってはいたんですが、当然、最初の一年というのは、洗い物とか、雑用とか、十数人分の昼と夜の賄いもやっていました。
昼と夜は仕出屋さんからおかずだけが入ってくるお弁当箱が来るんですね。だから毎日、味噌汁とご飯を炊かないといけない。
その準備をバタバタの忙しい中で、ちゃんと時間通りにやらなくてはいけないし、買出しもあるんで一日中走りぱなしでした。
朝はトーストなんですけど、最初から切ってある食パンではなくて切ってない食パンでした。
今日は何人分とか、それを毎日切らなくてはいけないんです。急いでいるんで、当然、薄くなったり斜めになったりしました。
それをしかられるんです。
社長の考えとしては、「パンぐらいきちんと切れよ」「同じ幅揃えろ・・じゃないとケーキなど到底切れない」という事だったんです。
その中にもちゃんとした意味があったんです。賄いを作るというのも、なんでこんなにバタバタしてるのにやんなきゃいけないと思うかもしれないけれど、結局、与えられた時間はみんな一緒じゃないですか。
一日は24時間。その中でどれだけ有効に時間を使うか、頭を使わなくちゃいけないという、それをする事によって、時間を管理できるようになるんですね。
だから、一年生はそこから始まるんです。そこで、時間を見つけて先輩の作業を見たり、教えて頂いたりしていました。洗い物ひとつにしても早く終わらしてしまわないと、いつまでたっても「お前これやるか」という話にならないんです。
田中
仕事で辛い、辞めたいと思った事は?また楽しかったことは?
霜上氏
最初の1〜2年は、悔しい事が多かったですけど、不思議と辞めたいとは思わなかったですね。
当然、男ばかりの世界だったんで、どの世界もそうだと思いますけど、十数人もいれば合わない人もいるわけで、
でも、その中でクリスマスだけは、みんなが毎年ひとつになれる。その瞬間が僕は凄く好きで、一年生の時に感動して、先輩も、ふだんは喧嘩してるのになんでこんなに仲良くやっているんだろうって、みんなが一丸となっているのが分かって、忙しい時ほど盛り上がらないといけないと、こういうのっていいなぁって思いました。
田中
7年勤めて上がられましたが、その後にお店をオープンされるわけですか?
霜上氏
一応、修業後は熊本に帰ろうとは思っていたんですが、関西方面でも修業をやりたかったんです。しかし父が、僕が帰ったらお店を出す計画があったみたいで「そろそろ帰ってきたらどうか」と言ったんです。そういう父の言葉が後押しとなって自分の中でもいいタイミングかなって思って帰郷するようにしました。
田中
生まれ故郷に店をオープンされてどうでしたか?
霜上氏
店のオープンは1999年の12月です。
この場所は元々実家で、オープンに合わせて改装したんです。
オープン当初は僕とバイトの人が2人、製造は1人いたんですけど、すぐ辞めちゃって、大変な日がしばらく続きました。
当時は仕事が終わって次の日の仕込みをしないといけないし、人も不安定で入れ替わりが多くて、自分の中ではなんともないと思っていたんですけど、円形脱毛症になったり、気持ちとは裏腹に身体が反応していたんでしょうね。
オープンから2年くらいは大変な時期もありましたね。このままではお店は駄目になってしまうんじゃないかって思いました。東京から帰ってきて、こちらにも知り合いのお菓子屋さんもいないし、相談できる人もいなかったです。ただ、それからなんとか、頑張って3年目くらいから人も安定し、少しづつ気持ちにも余裕が出て来たんです。 |